雨の終戦記念日、人気のない福井の街を神社めぐりに励む〝火打

 

石〟夫婦。そろそろ福井市を出て宿の予約をしている小浜市に向かわ

 

ねばならない…夫の予定では(参詣する神社さんをセレクトするのはクルマを

 

運転する夫)福井神社さん参詣の後は神明神社さん、火産霊神社さんを

 

参詣、そして福井市を出て鯖江市へという計画だったのですが、如何

 

せんこの大雨は想定外叫び。なんだか嵐のような感じになってきて、

 

私達は福井に嵐を呼ぶ夫婦かよドクロ、3年前の長月に来た時は台風

 

だったしガーン。それでも参詣してまいりました、宝永4丁目の神明神社

 

さんニコニコ

 

 

 

 

 

 

神明神社さん   ウィキペディアならこちら

 

 

神明神社さんの御祭神は天照皇大神さま。神社さんのサイトから

 

御由緒を引用させていただきますと

 

 

社伝によれば、遠く越前国北庄三郷(現在の福井市中心部)は足羽

御厨(あすわのみくりや)と呼ばれ、伊勢神宮に御戸帳(みとばり)を

献上する神領でありました。

第六十代醍醐天皇の御代、北庄に明光長者という人があり、厚く天照

大御神を崇敬し、御神徳を頂くことも少なくなかったため、当地に社殿

を造営し、皇大神宮を勧請したい旨を朝廷に奏聞に及んだところ、

天皇深く叡感なされて直ちに、「国家鎮護のために大神宮を勧請

せしむべし」との勅命を下されました。かくして延長二年(924年)三月

九日、右大弁藤原親正、神使久志本右衛門大夫広次等が、御分霊・

神宝・幣帛等を奉戴して北庄に参着、暫く足羽神社御宝殿に御滞座の

後、同年九月二十日、御社殿の竣功をまって御鎮座になられました。

 

 

とのことですが、足羽御厨は伊勢神宮に御戸帳を献上する神領…

 

“御戸帳”とはいただいた『神明神社御由緒略記』によれば幌のこと

 

だそうですが、こんなことを書いていると思い出すなぁ、神社検定の

 

試験勉強…伊勢神宮の式年遷宮について読んだ、公式テキスト④

 

『遷宮のつぼ』。“現在の福井市中心部は、遠く伊勢神宮御創建の時

 

より御戸帳(みとばり)を奉る御領所であったことから御厨(あすわの

 

みくりや)と称されていたが、神宮の御領地のことを記した「神鳳鈔」

 

にも「足羽御厨 上分絹七疋、口入二十疋、百八十丁」と見え、後々

 

までも当地に産した絹が神宮へ上納されていたことが知られる。神宮

 

の大切な御料である御戸張(幌)に越前産の絹が用いられていたこと

 

は、当神社の御創建とも深い関りがあり、かつて福井市の主産業が

 

絹織物を中心とする繊維関係であったことも、深き御神慮によるものと

 

いうべきであろう。”と『略記』にありますが(「福井市と神明神社」より)、

 

へぇ、“神宮の大切な御料である御戸張(幌)に越前産の絹が用いられ

 

ていた”んだ…また一つ勉強させていただきましたニコニコ

 

 

 

 

写真からも雨がひどく降っているのがわかるかと思いますショボーン

 

 

 

 

 

 

 

神明神社さんの境内には“御本社に向かって左側に東面して、恵比須

 

神社・稲荷神社・袋羽神社の三神社の合祭殿(ごうさいでん)と聖徳

 

太子堂(しょうとくたいしどう)が並んで鎮座されて”(←『略記』 境内神社 

 

より)います。

 

 

 

↑合祭殿

 

 

 

 

↑聖徳太子堂。“聖徳太子の偉徳を敬慕する人々によって明治34年

 平岡山に建立されたが、昭和26年春に当神社に移築された。”との

 こと。(←神明神社さんのサイト 境内社こちらより)

 

 

恵比須さまとお稲荷さまはお馴染み(失礼あせる)ですが、袋羽(ほろは)

 

神社さんは?…神社さんのサイト(「境内社」)から引用いたしますと

 

 

古くは「正保2年(1645年)3月吉祥日 施主川澄角平興勝」の銘のある

袋羽大権現碑として祀られていたが、天保・弘化の頃より庶民の信仰

を得て諸願成就の奇瑞があり、社殿・鳥居・絵馬が寄進されて境内社

としての姿をととのえるにいたった。「猫塚さん」の名で親しまれ、子供

の夜泣き平癒に霊験あり、鰊(にしん)を供え、絵馬を掲げて子供の

無事成長を祈願する人の参拝が絶えない。

 

 

となるのですが…「猫塚さん」なんですねラブラブ。“「袋羽大権現碑」は妻に

 

化けた猫退治をした川澄角平が、願を掛けた郷里・結城の産土(うぶ

 

すな)・袋羽神の御神徳を称えて建立したものと伝えられている。”と

 

『略記』にありますが、化猫退治で猫塚さんか汗。猫好きとしては素直

 

にその名称を喜んで良いのやらショボーン

 

 

 

神明神社さんの御朱印はこちら↓(*^▽^*)

 

 

 

 

↑“福居庄総社”というのは、

 

 

慶長二年に入国した結城秀康公は北庄城を拡張するため、当社の

門前町であった神明町を城北に移転させましたが、神域は動かさず

城郭内に残しました。第三代藩主忠昌公は北庄の「北」は敗北に通じ

不吉であるということで、福居(福井)と改称しました。以来当社は

「福井惣社」(越前国名蹟考)と称されるようになりました。(←サイト

「福井(北庄)と神明神社」こちらより)

 

 

とのことだそうです。越前国の総社は越前市の総社大神宮さんだそう

 

ですが、総社というのは“国の総社”だけでなく“地域の総社”も存在

 

するので、神明神社さんは福居庄の総社ということなのですねニコニコ

 

(ウィキペディア「総社」参照) 

 

 

 

 

神明神社さんに続いてすぐお隣の普観寺天満宮さんを参詣します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天満宮といえば御祭神はもちろん菅原道真公ですが…普観寺天満宮

 

さんでいただいた案内によると、菅原家は代々、そして道真公御自身

 

も観音信仰を有しておられたことが伺われるそうで、“普観寺のご本尊

 

が、観世音菩薩であると思うと、極めて不思議な縁と言わざるを

 

えない。” そして道真公が大宰府に赴かれた際、公の第三子乙千代

 

麿君は越前に来られて、父君を慕うあまり道真公の御尊像を刻まれ、

 

その御尊像は丹生郡吉江の菅丞寺に安置されてあったとのこと。この

 

吉江に住まわれた松平昌親卿の帰依が極めて篤く、卿が第五代福井

 

藩藩主になられると、福井藩祈願寺の普観寺境内に堂宇を建立、

 

寄進されたのが普観寺天満宮さんの所以だそうで…文中の“菅丞

 

寺”ですが、これは歌舞伎や文楽をご覧になる方でしたら気がつくと

 

思いますが、菅原道真公は菅丞相と言いますね。(←『菅原伝授手習

 

』) つまり菅丞寺さんは道真公のお寺ということかな?。吉江藩

 

藩主の昌親卿(この時の名は昌明)が道真公を祀るお寺に帰依して

 

いた、と。う~ん…ネットを浚った限りでは菅丞寺さんの情報はちょっと

 

見つけられない汗近松門左衛門が吉江藩の人というから(ウィキ

 

吉江藩」参照)その辺り何か関連でも??。

 

 

 

私達が参詣した8/15は普観寺天満宮さんの天神祭(8/14-8/16)で、

 

御尊像がご開帳、掛軸が公開されていましたニコニコ。「中に入ってご参拝

 

下さい」とのことで御尊像を間近に拝観できました(*^▽^*)。ありがとう

 

ございましたm(_ _ )m。

 

 

 

御朱印はこちら↓(*^▽^*)。

 

 

 

 

 

たいへん申し訳ないのですが、札所の印が滲んでしまってちょっと読み

 

取れない汗…“十五番札所第二十二番”は読み取れるのですが。これ

 

を手がかりにネットを浚ってみるとこちらに情報が(「木の村・コレクション」

 

の「各地の観音札所」の「越之國観音三十三札所」)。興味を持たれた方は

 

ご覧になってくださいm(_ _ )m。(“福井藩祈願寺の普観寺”についても

 

情報が浚えなかったショボーン。申し訳ございませんm(_ _ )m。)

 

 

 

 

今回の記事はずいぶんと散漫な記事になってしまいましたドクロ。申し訳

 

ございませんm(_ _ )m。(なんか謝ってばっかりだな汗) ここまで目を通して

 

くださった方にお礼申し上げますm(_ _ )m。次回からは福井市を出て

 

小浜市へ向かう〝火打石〟夫婦の道中記をUPいたしますねあせる