6/14、名古屋モスクを見学させていただいた夫、その足で名古屋市
東区葵のカトリック布池教会 さんを訪問(=⌒▽⌒=)。モスクに
続いてカテドラルへ…って、ほんといいのかなぁ??。
“カテドラル”とは、“椅子,座席を意味するギリシア語カテドラ kathedra
に由来し,司教座を有する聖堂のこと。”とコトバンクの「カテドラル 」に
あります。夫がいただいてきた布池教会さんの案内には
カトリック教会には教区とよばれる地区に分かれています。それぞれの
教区には司教が任命され、その司教が儀式をする時の着座椅子を
「カテドラ」といいます。カテドラルとはカテドラのある教会、司教座聖堂
のことです。(以下略)
と記されています。ふ~ん…実は〝火打石〟は幼い頃、カトリックの
幼稚園に通っていたのですが(何十年前の話よ?)、礼拝堂のような
所で十字架のイエスさまを仰ぎ見た記憶が幽かにあるなぁ。幼稚園
からもらってきた絵本に、茨冠のイエスさまの絵があったのですが、
モノクロームのそのイエスさま、額から黒い血を滴らせていていま
思い出してもちょっと恐怖を感じる。そんなモノクロームのイエス
さまを怖がっていた幼児は十年ほどして西洋絵画大好き人間になり、
それこそ“血塗れ”の宗教画などを画集で飽かず眺めるようになるの
ですが(;^_^A。
布池カトリック教会
名古屋教区司教座聖堂(聖ペトロ・聖パウロ・カテドラルとも
いわれ、カトリック名古屋教区(愛知・岐阜・石川・富山・福井)の
中心となる教会である。
昭和三十七年(一九六二年)竣功の大聖堂は、ゴシック様式
であり、毎週日曜日には塔の鐘が鳴らされ、厳かにミサが
行われる。
聖ペテロ、聖パウロ…キリスト十二使徒(→「使徒 」参照)ですね。
オリュンポス十二神 は覚えられたけどキリスト十二使徒は覚えられ
ないんだよなぁ。なんでだろ
。
なんだか幼い日の記憶が蘇ってきそうな…或いは何か美術展を観て
いるかのような。神社仏閣の写真を見ている時と感覚が違う!。実際
カテドラルに行ってみたらどうなんだろう?。寺社めぐりとは違った
感覚を覚えるんだろうな、きっと。
夫が布池教会さんをお伺いした時は、教会の方は誰もいらっしゃら
なかったそうです。扉に鍵はかかっていなかったので中に入り、
スタンプを押させていただいたそうですが…
いただいてきた案内に、“静かにお祈りをしたい人、心を落ち着けたい
人、つらいことや悲しいことのある人は、どなたでも大歓迎です。
大聖堂のベンチはいつもあなたを待っています。”とあるのですが、
果たして夫のような(〝火打石〟夫婦のような)人間でも歓迎される
のかな??。招かれざる客のような気もしないではないですが…まぁ、
“また、聖堂は「都会の心のオアシス」です。いらっしゃるときには、
祈りの場としての静かな雰囲気をこわさないようにお願いします。”
というお言葉はちゃんと守ります。無知故の不心得もあるとは思い
ますが、聖なる空間を汚すような真似は厳に慎みますので、教会の
方々、これからも私どものような者がお訪ねすることを、どうかお許し
くださいませm(_ _ )m。
それにしても…私達日本人は教会って聞くとまず思い浮かべるのは
結婚式ですよね?。よく言われることですが、お宮参りは七五三は
神社、結婚式は教会、葬式はお寺って、日本人は無宗教、いい加減
て。まぁそれはそのとおりだと〝火打石〟も思うのですが、それも
またいいんじゃないでしょうか?。純粋な信仰に生きていらっしゃる方
には失礼な言動とも思いますが、〝火打石〟にはその〝いい加減さ〟
が好ましい(*^▽^*)。そんな次第でこれからも、いろんな意味で
“行き当たりばったり”な寺社めぐりを続けようと思います(≡^∇^≡)。
※「カテドラル」の説明は上記のとおりですが、「モスク」は?→こちら
※余談ですが…7/5のギリシャの国民投票、結果は出ましたが果たし
てこれから彼の国はどうなってしまうのやら??。新聞やネットには
“21世紀のギリシャ悲劇”とか、“ギリシャ「神話」の崩壊”などと
書かれてしまっていますが…オリュンポスの神々はこの事態、どの
ようにご覧になっておられるのやら?。ソクラテス やプラトン 、
アイスキュロス やソフォクレス なら何と言うんだろう?…そんな
妄想に耽ってしまう今日この頃です(T_T)。
(実際はそんな呑気なことを言ってる場合じゃない、日本だって
“明日は我が身”の可能性もあるんでしょうから。)