静居寺さんに続いて参詣したのは旗指地蔵堂 さん(*^▽^*)。
〝火打石〟は身体が辛かったので参詣できなかったのですが(ノ_-。)。
(クルマの中で休んでました(T_T)。)
明治時代の中頃、旗指地区で疫病が流行し、住民は大いに
苦しんだという。この状況を見て、当時同地区の伝心寺に隠棲
していた西有穆山師が、病気平癒と村内安全を祈念して、青森県
下北半島の恐山から本尊の地蔵菩薩の分身を譲り受けた。堂内
には、恐山を監理している青森県円通寺の住職が、明治三三年
一月二八日に付与した「恐山地蔵尊分體贈與證」が掲げられて
いる。
さて、この地蔵の分身を譲り受けた旗指地区の人々は、
一一三〇キロ離れた恐山から、尊像を背負って帰って来た。
そして、西有師が寄付した金五〇円と墨跡百枚を元手に、二、五
間四方の地蔵堂が建立された。堂内に残っている棟札によれば、
尊像が堂内に安置されたのは明治三三年四月のことである。
地蔵堂は今も旗指地区で守られており、日限りの願かけに参詣
する者も多い。縁日の毎月二六日には、地区の人々が大数珠を
回しながら読経を行う。また、大祭の八月二六日には、同地区の
静居寺住職による施食会供養とともに、盆踊りなども行われる。
「第二七番 旗指地蔵堂 恐山地蔵尊 」のページから引用させて
いただきましたが、静居寺さんを参詣していて正解だったわけ
ですね(‐^▽^‐)。(石碑には「年大祭を八月二十六日に近隣の
僧侶を招請して盛大なる施餓鬼供養を執り行う」とありますが。)
恐山 は、上記の「旗指地蔵堂」のページによると、
また、恐山は高野山、比叡山と並ぶ日本三大霊場の一つ。貞観
四年(八六二)、慈覚大師円仁によって開かれたと言われている。
当初は天台宗の寺院だったが、一度廃寺となり、享禄三年
(一五三〇)に曹洞宗の釜臥山菩提寺として復興した。古くから死者の
魂の集まる霊場と言われており、大祭の日に、死者の言葉を伝える
イタコが集まることでも知られる。本尊は、慈覚大師自作と伝えられる
地蔵菩薩。この地蔵は毎夜賽の河原を見回るため、新しい下駄を奉納
しても、翌日にはその裏に小石がついているという。
とのことで…“恐山のイタコ”は超が付くほど有名ですが、その恐山
から旗指に背負われてきた地蔵菩薩の分身。青森から静岡へ、
凄い話だなぁ(ノ゚ο゚)ノ。
旗指地蔵堂さんは駿河一國百地蔵尊 の第廿七番の札所となります。
↑お堂の内部…恐山の地蔵尊、拝したかったな(>_<)。
夫 「御札があったのでいただいてきた」 ≧(´▽`)≦。
静居寺さん、旗指地蔵堂さんとお参りして、次に伺ったのはやはり旗指
の法幢寺さん(*^▽^*)。今この記事を書きながら気付いたのですが、
法幢寺さんの“幢”という字は
1 昔、儀式または軍隊の指揮などに用いた旗の一種。彩色した布で
作り、竿の先につけたり、柱に懸けたりした。はたほこ。
2 魔軍を制する仏・菩薩(ぼさつ)のしるし。また、仏堂の装飾とする
たれぎぬ
を表すそうですね。(←コトバンク 幢(ドウ)とは より) 幢-はたほこ
-旗-旗指とつながっているとみてよいのでしょうか?。法幢寺さんの
縁起をいつものようにネットで浚ってみたのですが、ごめんなさい、
ちょっとわからない
…“幢→旗指”の連想は〝火打石〟の勝手な
見方ということで
。
法幢寺さん
身体も動いたので今度は〝火打石〟も参詣(‐^▽^‐)。お参りをして
御朱印をいただこうと玄関のベルを鳴らすと、どうやら外出なさる風
だった住職。それでも快く御朱印をくださいました≧(´▽`)≦。
「御朱印を書いている間、本堂にあがってお参りを」とおっしゃって
くださったので、ありがたく…
そしていただいた御朱印がこちら↓(*^▽^*)。
お出かけされようとしていたところに押しかけたのにも拘らず、快く私達
を迎えてくださった御住職≧(´▽`)≦。本当にありがとうございました
m(_ _ )m。
島田市旗指でお寺めぐりしていた〝火打石〟夫婦ですが、少し場所を
移動して今度は河原でお寺めぐりとなります。大井川のすぐそばの
河原町ですが、夫が向かうのは関川庵…“八百屋お七の恋人・吉三郎
の墓”があるといわれるお寺さんです。次回UPいたしますね(;^_^A。
















