自戒をこめて、書きます。
今日、比較教育についての授業が最終回だった。その授業は講義形式ではなく、ゼミ形式で行う。15回の中で一人3回のレポート発表を行ってきた。そして今日、それらのレポートを製本し、冊子にしたものを先生からいただいた。
冊子の最後のページには、先生からのメッセージがあった。あたたかく、教養に溢れた言葉の最後に、
「金曜3限の充実した空気と時間を想起しつつ。」
と書かれていた。
その先生は幅広く、深い教養をお持ちだ。わたしたちが発表してきたことなんて、きっと先生からしたら、ごくごく当たり前のこと。授業内で話し合ったことも、つたない、なんてことのないものだった。「充実した空気」だなんて、まるで高価な指輪をもらうようなもの。
わたしがその先生ほどの教養を持っていたら「もっと勉強しろよ、大学生」と思うだろうな、とふと考えたとき、ああこれではいかん、と思った。わたしは、その先生が【自分と同等のものを学生に求めている】にちがいないと、無意識に思っていたからだ。
わたしは、先生と生徒という関係において、生徒を下に見ているのだと思う。もちろん表面的には対等を装っている。しかし、根っこのところでは、そういう、優劣のような見方があるのだと思う。だから、自分がいいと思っていることを知らなかったり、身につけていなかったりすると、不足していると感じ、自分の理想や価値観を押しつけてしまう可能性が高い。
でも、それではいけない。先生は生徒を選んではいけないから。
生徒は先生を満足させるためにいるのではないし、先生は生徒に自分の理想や価値観を押しつけてはいけない。
塾で働いていて、「なんでできないの!」と感情的になること、、、と書くと大げさだけど、たとえば同じ計算を何度も間違えてイラっとしたり、はぁとため息を心の中でついてしまったりすることがある。
反対に、「これくらいできていれば大丈夫」と思うものができると、褒めることがある。
どちらも、要はわたしの感覚で評価しているということだ。彼が彼女が成長していないから、成長したからアプローチをしたのではない。
レポートの冊子をくださったその先生は、講義の時間、誰よりも楽しそうだった。先生があんまり楽しそうに学ぶから、こっちまでその楽しさが伝染するくらいだった。とにかく学ぶことが楽しくてしょうがないという様子で、話し出すと止まらない。わたしたちが質問をすれば、ニコニコしながら、インド教育の現状から、世界最古の図書館まで、語る語る。そして、心の底からレポートについて褒めてくれた。対等に、学び語り合う相手として扱ってくれていた。
きっと先生にとっては本当に「充実した空気と時間」だったのだろう。
今のまま、心のどこかで優劣をつけてしまうようでは、あんなに楽しそうに学ぶことはできない。当然、学ぶ楽しさなんて伝えられない。
