朝日デジタルから

 

 

いきる

いまは、生きている意味もなくていいと思える。

 

自分自身に関心がないんです

92歳を迎え、車椅子を使う生活になった

もう90歳を超えてね、いまがいちばんいい、なんて思うことはないんですよ。足がヨタヨタしてるしね。前はテキパキ動くのが好きだったし、できればちゃんと歩きたいとも思いますよね。自分の身体の状況は、どっかで詩に影響してるはずなんですよね。

車椅子は便利だけど、吉本隆明のようには乗りこなせないね。

講演中、舞台の上で車椅子をグルグル回しながら話していたように記憶してますね。彼は、肉体を持った存在として、作者そのものにも少し目を向けてほしいと思ったんじゃないかな。

僕にはそういう気持ちはないんですね。わりと昔から、自分自身に関心がないんです。

いまは、生きている意味もなくていいと思える。

本音とフィクションは常に共存してる

最近の詩では、老いゆく体の感覚を見つめている

ある年齢を過ぎると
どこも痛くなくても
体がぎごちない
けつまずいて転んでから
それが分かり
体は自分が草木と
同じく枯れてゆくと知る

「いのち」から抜粋

年取ったから、日記のような詩を書きたくなったんですね。あんまり次元の高い抽象的な言葉じゃなくて、日常に即した言葉で現代詩を成立させたいと思っています。

だけど、正直な感覚はなかなか出せない。やっぱり人が読むものだから気取るわけですよね。それに、詩は本音だけだとつまらなくなる。

言葉そのものの持つ力があるから、書いてるうちに、本音ではないんだけどこっちのほうが詩句としていいやってなることがありますね。きれいな言葉があればそれは詩になる。かといって、フィクションだけでも満足できなくて、自分の本音を時折混ぜる。そんな感じになってますね。

日常生活のなかでも本音とフィクションは二重になっているんじゃないかな。

本音とフィクションは常に共存してる。

自分の詩に対しては、常に不満がある

18年に出した「幸せについて」では、老いにこう向き合っていた。

〈老いると生きていることに対して謙虚になるな。

これは老いの長所のひとつかもしれない〉

若い頃の自分に嫉妬することはないですね。

全然他人だと思ってるから。

いまは、あんまり体に異常がなくて、全体的に痛いとこもかゆいとこもなくて、

寝てるときなんか幸せですよね。何も考えないでいるということができるようになってきたんですね。

リルケが〈詩は感情ではなく経験である〉と書いていたのを読んで、

若い頃は反発してたけど、たしかに年を取ってからの方が、

経験から言葉が生まれてくる。だから、

年を取ったほうがいい詩が書けるはずなんだけどね……。

自分の詩に対しては、常に不満があります。

新しいことがないから考えなきゃ

1952年、詩集「二十億光年の孤独」でデビューしてから70年以上が経つ。宇宙、子供、恋愛、言葉……。詩集のテーマも作風も、表情を変え続けてきた

商売だから。人を退屈させちゃまずいというのが基本的にあるんですよね。サービス精神とも言えるんだけど、もっと真剣に、他人との関係の中で少しでも自分を役に立たせようというところがありますよね。

70年以上書き続けてるわけでしょう。もう新しいことがないから考えなきゃダメなんです。

でも、書き方の引き出しが多いんじゃなくて、そのときの感情の動きがそのまま出てるだけなんですよ。

詩を書くことは、いまも基本的に楽しい。締め切りが重なるとつらいけど、そうであっても、書くことでどうにか動いていこうという気持ちがありますよね。書くことがないとか、うまく書けそうにないなと思っても、強引に何か書こうとしちゃうのね。

気が弱いから、昔から締め切りよりもずっと前に原稿を提出しちゃうんです。

生まれたよ ぼく 谷川俊太郎

自分に疑問を持てばいい

作品が変化するのは、書き手のほうも変化しているからだ

違うものを書くには、自分が変わらなきゃいけないっていう意識がずっとありました。

自分を変えるためにはやっぱり、真面目に人生を送っていくっていうことしかないんじゃないかな。そうすると、嫌でもどっかで年齢に即した変化がありますよね。

「真面目に」っていうのが何を指すのか、簡単には定義できないと思ってるんだけど、生活を大事にするということかな。漠然とですけどね。自分が何となく考えてる、あるいは守ってる生活の意識みたいなものを大事にする。

みんなすごい意識して、言語化して、自分を律してるけど、人間ってもっといい加減なもんだと思う。いちいち言葉にしてはっきりさせたくなるのは、不安だからでしょうね。

自分が変わったということに気づくっていうことも大事ですよね。

人を比べることもしなくなりました。優劣をつけるのが面倒なの。

気がついたらそういうふうに見られるようになってた。その変化には急に気づくわけであって、いつの間にかそうなってしまったんですね。

気づくためには、自分に疑問を持てばいい。僕は若いときから自分を疑ってきました。別にそれで自分がよくなるわけでもないんだけど、常に自分に疑問を持って生きていたところがありますね。

何ひとつ書く事はない
私の肉体は陽にさらされている
私の妻は美しい
私の子供たちは健康だ

本当の事を言おうか
詩人のふりはしてるが
私は詩人ではない

「鳥羽 1」から抜粋

自分を疑っているっていうのは、自分に厳しいんじゃなくて、だらしないんじゃない? 自分はだらしないと自覚してる。テキパキと話もできないし、そういう自分をあんまり信用していないんですよ。