追星記録。

太字は本人の言葉をテキトーに訳したものです。

たまに過去に出演した番組などもゆる〜くゆる〜く見ています。

ブログ内でYouTubeを見られない時は

「YouTubeで見る」をクリックすると向こうに飛んで見ることができます。

 

 

 

 

映画「周處除三害」のレビューです

★3/13  微信公衆号

 

-

張三堅回来了 2024-03-13 18:30
 

 この前、会社のミーティングで同僚に映画​​を勧めようと、その話をしたら思いがけず彼らは「どう?おととい私はボスがこの映画を推薦するはずだと言ったんだ」と言われた。

   その通り。「周處、三悪を除く」です。この映画のタイトルは、同名の故事から来ています、周處という若者がいて、彼は子供の頃、ずば抜けた武力を笠に来て、村で威張り散らし、みんなから嫌われていた。南山の猛虎、長橋の下の蛟と並んで「三害」と呼ばれていた。その後、悪人から善人へと改心し、一人で猛虎と妖蛟を成敗したことから「三害を除く」と言われています。

 

 映画は自分の命が尽きることを知った指名手配犯の陳桂林の話で、彼は自首するために警察署に行くが、自分が指名手配ランキングの3位であることに気づき、遠くまで悪を追いかけ、悪には悪で上位二人を取り除くことに決めた。

 これはプロセスは正しくないが結果は正しいという映画です。いずれにしても現在は暴力には暴力で対抗することを選択してはいけない、人々の素朴な感情には符合するけれども、現代社会の運行規則には不適合です。映画では、警察を代表する正義の力の弱体化により、悪の代表とされる男性主人公が正義の執行者になった。

 この「三悪」と言えば、指名手配ランキング2位の「香港仔」は、全身血まみれの極悪人で、短気で陰険、何かあると周りの人を殴殺する、冷酷悪辣でゾッとさせます。ランキング1位の林禄和は人に穏やかで、風采がよく、慈愛にあふれ温和で、善の名の下に大衆を洗脳する、洗脳した温情のある言葉は、梵音の響きとなり、純潔な色彩の下には、怪しい雰囲気で、穏やかな中に不安が表れている。

 この二人の悪役の基調は「黒」と「白」がぶつかり合いのようです。

 黒は完全な黒ではなく、白も見たままの白ではない。

 林禄和を例にとって言うと、彼はかつて最も深い「黒」で、50件以上の銃撃事件を起こし6人の警察官を殺害し、今は「白」い服をまといカルト教団「新心霊舍」の尊者になっている。毎日「「黒」い水を嘔吐するのは、身体に不潔なものがある」との話術で信者から金を騙し取り、清「白」な姿勢で「悩みの根源は貪欲だ」とみんなに明かす、ここに来るとすでに狂気のピークに達しているようです。

 続けて、陳桂林は林禄和のペテンを見極めた後、霊修練センターに戻り、2発で射殺した。恐ろしいことに、リーダーが死んでも教団は消滅していない。いつも彼のそばで歌っていた女性がすぐに代わりを務め、信者たちを率いて歌い続け、礼堂に歌が駆け巡った。

 礼堂に戻った陳桂林は信者たちに2つの選択肢を与えた、1分以内にここを離れるか、それとも彼に殺されるか。急いで逃げた信者もいたが、さらに多くは残る事を選択し、自分が射殺される結末を静かに待った。

 ここは私の最初の疑問、射殺されるべきは、撃逃走した人なのか、それともその場に留まった人なのか?

 陳桂林から見ると、その場に留まった人は真相を見ていたにも関わらず、自分で考えたくなくて、甘んじて洗脳されたから、必然的に罪がある。だから彼は容赦なく一人ずつ葬った。

 それでは礼堂から離れた人は?あの1分間で、教会を離れたのは洗脳されていない人以外に、林禄和の側近で、彼らはペテンを実行し、普通の人を迫害する。

彼らの頭目は死んだが、時間が与えれば新しい尊者を出して、大衆を騙し続けることができる。

 愚か人とバカにする人、いったい誰が最も死ぬべきなのだろう?

 これは悲しい色彩を持たない悪役たちで、時には悪役の厚みを増すために、多くの映画では悲惨な経験を塗布し、外的な様々な要因によって引き返せない道を歩むようです、悪人が悪人になるのは仕方がない。

 しかしこの映画はこれらの経験の割合を大きく弱めたり隠しているが、悪役の役柄は薄まっていない。男性主人公の陳桂林は、傲慢で狂気的で横暴、名を残すことに強い執念を持っているが、心にはまだ柔らかい所があり、祖母を気にかけ、弱者や子供に憐れみを持ち、無邪気で純粋ですらある。

 彼がニ害を取り除き、自らで贖った後、別の疑問が生じた。悪人が死ぬ前の善行すれば許されるのか?諺にも「悪人も悔い改めれば善人に立ち返る」と言われるが、この映画は罪を重ねた人として、彼は法の裁きを受け入れる必要があると、人情や道理にかなった答えを与えている。陳桂林は悪の中の善を現したが、この善は彼の死刑執行時に観客が深く悲しむほどではなかった。

 最後に、それまで敷いていた伏線を回収(彼が自分が末期の病気は誤りだと判明)し、彼は髭を剃り、最後の食事をしてタバコを吸い、静かに自分の末路に向かった。

 ここで私の2つの考えを導き出す。

 香港仔は陳桂林にコントロールされた後の最後の言葉は「なぜ?理由を言え」だが、陳桂林は答えなかった、冷酷な一発で彼の命を奪い、余計な一言や動作も残さず、簡潔で処理するが格別に力強いです。

 しかし、エンディングでは演技の感情濃度が満ちて、観客が心地よく見ている時に、後ろからより多くのストーリーと詳細な流れが続き意味が薄れていった、まるでグラスの中の美酒に氷をたくさん加えてしばらく放置すると、味が徐々に薄くなっていくようです。

 ある老師が演技で自分を表現できるなら、台詞はできるだけ少なくしなさいと言ったのを覚えています。最後に、あの肺癌を患った役を演じた俳優は、ベリーショートヘアでカメラに映り、体つき、表情、顔のシワひとつひとつまでが、病気の体を表している。彼女は獄中の陳桂林に「レントゲンはあなたのものではない、あの肺は私のです。」と言った。この言葉の後、俳優の目つきにクローズアップされます。ストーリーの反転と劇的さは十分に素晴らしく、動機、ため息、選択はすでに表面化していて、その後の会話はグラスから水が溢れるようなものです。

 もう一点は、陳桂林の髭を剃る部分を見て、刑務所に髭剃りを持ち込む方法やなぜ持ち込むのかの描写に多くの時間を費やしているが、リズム的に少し冗長に感じた。しかし、見続けていくうちに、俳優の微妙な処理は髭剃りの必要性を理解させてくれた。髭を剃る過程で陳桂林は涙を流し、きれいになった自分を見て、彼の最初の姿のように再びスーツを着て、この瞬間に終わった、まるで魂も贖罪と再生を待っているかのようでした。 (個人的な愚見ですが、ラストをこの瞬間にした方が、白いシーツの上に置かれて、入念に全過程を撮るよりも力強いのではないでしょうか?)

 時には「−」の方法が必要で、カメラの前では誠実な自分を表現し、カメラの外では空想を観客に残す、今は適度な余白を好む。数日前、同僚と文案について話し合ったことを思い出した、彼はあらましを書き、その意味を詳しく説明してくれた、私は礼儀正しくとてもよいが、数段落を削除させた。彼は理解できず「なぜ削除するの?みんなが理解できなかったらどうしょう」私は「私たちは聴衆が理解できないことを恐れて、引き算をしたくない。しかし、実は聴衆は聡明で、文字の魅力と震撼は文字以外に残された想像空間の大きさにある、私が表現したい事はすべて作品の中にある。」と言った。