私はプロフィールにも書いてあるように村上春樹さんが大好きだ。てか、ハルキストだ☆

昨日たまたま

「村上春樹 動画」

で検索してネットサーフィンしていると《チャンネル〇》という討論番組の動画に辿り着いた。
見てみると超右寄りの話をしていた。

議題はわからないが、とにかく村上春樹さんを批判をしていた。批判することは全然構わない。

今年2月、村上春樹さんがイスラエルのブックフェアでエルサレム賞を受賞した。その授賞式で『壁と卵』というタイトルの受賞スピーチをした。

それについて延々と討論していた。私が引っ掛かった内容は、

(1)
「イスラエルを壁に例えて、それに卵を投げて応戦するとか言ってるんですよ…」

「そりゃ、ひどいね」

(2)
「イスラエルに行かない勇気というものはなかったのか。」

先ず(1)について。
これを言った方の名前が画面で見えなかったのが歯痒いが、この方はエルサレム賞受賞スピーチの『壁と卵』全文を読んでいらしゃらないと思う。「イスラエルを壁と例えて、卵を投げて応戦する」なんてことは一字も書いていない。
しかも「このメタファーは何を意味するのか?」と「壁」と「卵」のメタファーについてすんごく丁寧にわかりやすく説明してあるのに。
こんな馬鹿な私にだって理解出来るくらい易しい言葉で書いている。

次に(2)について。
この方も名前が見えなかったので悔しいのだが、当時のイスラエルに行き、『壁と卵』のスピーチをすることが如何に勇気がいったことか想像が出来ないのだろうか?
最悪の場合、殺されたかもしれないのだ。
村上さんは、死を覚悟してイスラエルに行ったと思う。
後のインタビューで賞を受けるべきか否か悩んだことを打ち明けている。

何気に見ていたけど、途中で無茶苦茶右寄りの番組だと気付き、どうでもいいやと思ったけど、

「いやいや、全然違う。この人達、何も知らないぞ~\( ̄∀ ̄;)オイオイ」

と思ったので書いた。

小説というのは、人間の存在意義や生き方や考え方を紡ぎ出して物語にして私たちに届けてくれている。

小説などの芸術は、普遍的なものであって右か左かで感じるものではない。

以下、興味のある方は読んでみて下さい。

●村上春樹さん「エルサレム賞」受賞スピーチ全文(『文藝春秋』2009年4月号より引用)

「壁と卵」

 私は一人の小説家として、ここエルサレム市にやって参りました。言い換えるなら、上手な嘘つくことを職業とするものとして、ということであります。
 もちろん嘘をつくのは小説家ばかりではありません。ご存じのように政治家もしばしば嘘をつきます。外交官も軍人も嘘をつきます。中古自動車のセールスマンも肉屋も建設業者も嘘をつきます。しかし小説家のつく嘘が、彼らのつく嘘と違う点は、嘘をつくことが道義的に非難されないところがあります。むしろ巧妙な大きな嘘をつけばつくほど、小説家は人々から賛辞を送られ、高い評価を受けることになります。なぜか?
 小説家はうまい嘘をつくことによって、本当のように見える虚構を創り出すことよって、真実を別の場所に引っ張り出し、その姿に別の光をあてることができるからです。真実をそのままのかたちで捉え、正確に描写することは多くの場合ほとんど不可能です。だからこそ我々は、真実をおびき出して虚構の場所に移動させ、虚構のかたちに置き換えることによって、真実の尻尾をつかまえようとするのです。しかしそのためにはまず真実のありかを、自らの中に明確にしておかなくてはなりません。それがうまい嘘をつくための大事な資格になります。
 しかし本日、私は嘘をつく予定はありません。できるだけ正直になろうと努めます。私にも年に数日は嘘をつかない日がありますし、今日はたまたまその一日にあたります。
 正直に申し上げましょう。私はイスラエルに来て、このエルサレム賞を受けることについて、「受賞を断った方が良い」という忠告を少なからざる人々から受け取りました。もし来るなら本の不買運動を始めるという警告もありました。その理由はもちろん、このたびのガザ地区における激しい戦闘にあります。これまでに千人を超える人々が封鎖された都市の中で命を落としました。国連の発表によれば、その多くが子供や老人といった非武装の市民です。
 私自身、受賞の知らせを受けて以来、何度も自らに問いかけました。この時期にイスラエルを訪れ、文学賞を受け取ることが果たして妥当な行為なのかと。それは紛争の一方の当事者である、圧倒的に優位な軍事力を保持し、それを積極的に行使する国家を支持し、その方針を是認するという印象を人々に与えるのではないかと。それはもちろん私の好むところではありません。私はどのような戦争をも認めないし、どのような国家をも支持しません。またもちろん、私の本が書店でボイコットされるのも、あえて求めるところではありません。
 しかし熟考したのちに、ここに来ることを私はあらためて決意いたしました。そのひとつの理由は、あまりに多くの人が「行くのはよした方がいい」と忠告してくれたからです。小説家の多くがそうであるように、私は一種の「へそ曲がり」であるのかもしれません。「そこに行くな」「それをやるな」と言われると、とくにそのように警告されると、行ってみたり、やってみたくなるのが小説家というもののネイチャーなのです。なぜなら小説家というものは、どれほどの逆風が吹いたとしても、自分の目で実際に見た物事や、自分の手で実際に触った物事しか心からは信用できない種族だからです。
だからこそ私はここにいます。来ないことよりは、来ることを選んだのです。何も見ないよりは、何かを見ることを選んだのです。何も言わずにいるよりは、皆さんに話しかけることを選んだのです。
 ひとつだけメッセージを言わせて下さい。個人的なメッセージです。これは小説を書くときに、常に頭の中にに留めていることです。紙に書いて壁に貼ってあるわけではありません。しかし頭の壁に刻み込まれています。こういうことです。

もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。(この文章のみゴシック体の太字)

 そう、どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます。正しい正しくないは、ほかの誰かが決定することです。あるいは時間や歴史が決定することです。もし小説家がいかなる理由があれ、壁の側に立って作品を書いたとしたら、いったいその作家にどれほどの値打ちがあるでしょう?

 さて、このメタファーはいったい何を意味するか?ある場合には単純明快です。爆撃機や戦車やロケット弾や白燐弾や機関銃は、硬く大きな壁です。それらに潰され、焼かれ、貫かれる非武装市民は卵です。それがこのメタファーのひとつの意味です。
 しかしそれだけではありません。そこにはより深い意味もあります。こう考えてみて下さい。我々はみんな、多かれ少なかれ、それぞれにひとつの卵なのだと。かけがえのないひとつの魂と、それをくるむ脆い殼を持った卵なのだと。私もそうだし、あなた方もそうです。そして我々はみんな多かれ少なかれ、それぞれにとっての硬い大きな壁に直面しているのです。その壁は名前を持っています。それは「システム」と呼ばれています。そのシステムは本来は我々を護るべきはずのものです。しかしあるときにはそれが独り立ちして我々を殺し、我々に人を殺させるのです。冷たく、効率よく、そしてシステマティックに。

私が小説を書く理由は、煎じ詰めればただひとつです。個人の魂の尊厳を浮かび上がらせ、そこに光を当てるためです。我々の魂がシステムに絡め取られ、貶められることのないように、常にそこに光を当て、警鐘を鳴らす、それこそが物語の役目です。私はそう信じています。生と死の物語を書き、愛の物語を書き、人を泣かせ、人を怯えさせ、人を笑わせることによって、個々の魂のかけがえのなさを明らかにしようと試み続けること、それが小説家の仕事です。そのために我々は日々真剣に虚構を作り続けているのです。

 私の父は昨年の夏に九十歳で亡くなりました。彼は引退した教師であり、パートタイムの仏教の僧侶でもありました。大学院在学中に徴兵され、中国大陸の戦闘に参加しました。私が子供の頃、彼は毎朝、朝食をとるまえに、仏壇に向かって長く深い祈りを捧げておりました。一度父に訊いたことがあります。何のために祈っているのかと。「戦地で死んでいった人々のためだ」と彼は答えました。味方と敵の区別なく、そこで命を落とした人々のために祈っているのだと。父が祈っている姿を後ろから見ていると、そこには常に死の影が漂っているように、私には感じられました。
 父は亡くなり、その記憶も――それがどんな記憶であったのか私にはわからないままに――消えてしまいました。しかしそこにあった死の気配は、まだ私の記憶の中に残っています。それが私が父から引き継いだ数少ない、しかし大事なものごとのひとつです。

 私がここで皆さんに伝えたいことはひとつです。国籍や人種や宗教を超えて、我々はみんな一人一人の人間です。システムという強固な壁を前にした、ひとつひとつの卵です。我々にはとても勝ち目はないように見えます。壁はあまりに高く硬く、そして冷ややかです。もし我々に勝ち目のようなものがあるとしたら、それは我々が自らの、そしてお互いの魂のかけがえのなさを信じ、その温かみを寄せ合わせることから生まれてくるものでしかありません。
考えてみてください。我々の一人一人には手に取ることのできる、生きた魂があります。システムにはそれはありません。システムに我々を利用させてはなりません。システムを独り立ちさせてはなりません。システムが我々を作ったのではありません。我々がシステムを作ったのです。
私が皆さんに申し上げたいのはそれだけです。
 エルサレム賞をいただき、感謝しています。私の本を読んで下さる人々が世界の多くの場所にいることに感謝します。イスラエルの読者のみなさんにお礼を言いたいと思います。なによりもあなたがたの力によって、私はここにいるのです。私たちが何かを――とても意味のある何かを共有することができたらと思います。ここに来て、皆さんにお話しできたことを嬉しく思います。
(これは村上春樹さんご本人が書いたもので英訳は村上さんの翻訳者ジェイ・ルービンさんが書いたものです。)