『毛と穴』穴の巻 2010年
「女・子ども(私たち)の”コワイ”を利用するな!――私たちのほしい安心・安全な公共空間を考える」
「女がたとえ被害にあったとしてもよ、さっきの話に通じるんだけど、じゃあどうしたらいいんだろうとどうやったら暴力をなくすことができるんだろうって、むしろ被害にあった後こそ勝負!みたいな部分があるじゃない。『性暴力を根絶!』とかすぐ言う人って、そういう発想がないんだと思う。つまり、『なきゃいい』、『根絶させりゃいい』だけで、女性が暴力を受けようと受けまいと、夜道を何故安全に歩けないのかを考えることこそが大事という視点が一切なくって、『根絶させればいい』、『レイプをなくすには男を外に出さずに置けばいい』と禁止令を出せばいいって考える。『あのね、そういうことじゃないんだよ』って久しぶりに暴れました」(栗田2010、9)。
「あたしが気になってたのは、その攻撃してきた男がやっぱり守る男だったんだよね。それが私はものすごく嫌だった!宮下の運動に関わっている女の人たちから『守る男』として人気があって。『紳士的』とか言われてんの。それは、女の人たちが危険にさらされている状態で、むしろ私はその男がそう仕向けていることもあると思ってて。その男の人、セクハラ気味の人を捕まえて説教しだしたり、『お前いい加減にしろよ』ってその女の人の前で。キモいでしょ?(笑)だから、お前が言うなよ!男が出てくんなよ!って。それでわたしさあ、女の人に「いやなことを感じてませんか」ってことを何回も聞いたりして、ゆっくりゆっくりやっていこうとしてるのに、守る男が来てどっかーんと『セクハラ男、お前いい加減にしろよ!』と言って」(いちむら2010、11)。
「家父長制のバリエーションが違うだけだなと思う。その人が知る『家父長』のイメージが、わあわあ命令するイメージだったらそういう風に振舞うし、女子どもを守るのが『家父長』だと思っていればそう振舞う。嫌がっていることをしている男に『注意する』のが『家父長』だと思っていればそうする。いずれにしても、彼らがパターナリストであることに変わりはない。そのバリエーションの問題のような気がする。それがすごく直接的な暴力であったりもするんだけど」(林2010、12)。
「運動の場が擬似的に『家庭』になり、その中に女が囲われて遠隔的にコントロールされているという風に感じていました。田中美津の指摘したとおり、プライベートを支える女と運動を支える女を使い分ける男もいます」(根来2010、12)。
「『セクハラ問題ひとつ処理できないようなあんたたちに、社会運動なんて革命なんかできるわけない』」(根来2010、15)。
「すごく野宿をしたかった。街の中でちょっと奥まっているゴミ捨て場みたいなところとか、歩道橋の下とか、公園の端っことか。隙間みたいな、子どもだったら秘密基地にしてたような場所で寝たりしたいものだ、と思うんだけど、女だから諦めてきた。自分で自分のこと守れないから。男だったらできたかも、ってよく思っていた。それを反転させて、一人暮らしを始めた時に、家の中を外にすればいいのではと考えたこともあった。部屋の中でも、ずっと土足で野宿しているみたいな部屋にしたかった。でもそれは果せずじまい。大島弓子の『ロストハウス』というマンガに影響された。部屋に鍵をかけない人が、ついにはホームレスとなって、『全世界を部屋にしてそのドアを開け放った』といわれるという話です」(肉子2010、17-18)。
「私は、女だから野宿をする、っていうのを続けたいというのがあったよ」(いちむら2010、18)。
「私、宮下公園を墓化する作品を作ろうと思ったの。年間3万2千人の自殺者が12年続いていて、必要なのはナイキパークなんかよりも3万2千人の墓だ、と」(いちむら2010、28)。






