前半の続き
「タシデレ」
チベット語の挨拶を交わす
笑顔で答えてくれたのはこの宿の人だろうか
この掘っ建て小屋みたいな所に寝泊まりするのか
少し不安だけれど
一晩だけなら、と覚悟した
湖の畔といっても
小屋(宿)から湖までは離れている
着いてから何もすることなんて無いから
とりあえず湖の近くまで行こうと歩く
だけど、足が進まない
頭が痛い
これ以上は無理だ
引き返す
高山病は、酸欠が大きな原因だから
寝てしまうと逆に呼吸が小さくなるので
休めばいいというわけではない
できるだけ歩くなどして動いて、代謝を促して
あとは、深呼吸すること
酸素ボンベもあったけれど
中国産のボンベはいまいち効き目無く
あまり重宝しない
とりあえず意識して大きく呼吸をしながら
ゆっくり辺りを歩いた
羊もいるし犬もいる
子供もいる
ここで生活している人も動物も
高山病にかかることはないのだろう
剛さんが心配して一緒に歩いてくれた
剛さんは高山病の症状が全然無いみたいだ
歩きながらいろんな事を話した
偶然にも、2人とも野球部出身でキャプテンだったので
野球部話で盛り上がった
話しているうちに気分がましになってきた
頭痛はまだ少しあるけれど、いったん小屋に戻る
小屋にいると窓から子供達が羊や犬と戯れる姿が見えた
こっちは頭痛で苦しんでるのに
よくあんな走り回れるなぁ
やよいさんが2人の子供を部屋に招き入れた
けっしてきれいではない身なりだけど
2人の顔はとてもいい顔をしている
頬は赤く焼けて、目が澄んでいる
2人にお菓子を分けてあげて、チベット語を試してみる
「シンポドゥ?」(美味しい?の意味)
笑いながら顔を見合わせる2人
あんまり通じて無さそうだ
バックパックからスケッチブックを出して
ヤクの絵を描いて見せたけど、反応はいまいちだった
それならばと思い
2人の似顔絵を描くことにした
こんな辺境の地で、似顔絵は少しプレッシャーだ
ふたりは自分たちが描かれていることに
照れ臭いのか、なかなかじっとしてくれない
「動かないで」
こっちが真剣に鉛筆を動かし出すと
2人もこっちを見てじっとしてくれた
少し笑ったりしながら
しばらくスケッチに集中した
その間何度も2人と目を合わせ
無言の意思交感をしたような、とてもいい時間だった
なんとか上手く描きあげられたと自分では思う
剛さんはすごく誉めてくれたし
良い事したね~と羨んでいた
2人も絵を見て照れ臭そうに笑い合った
いつかまた僕がここに来たとき
それまで絵を持っていてくれたら
どんなに嬉しいだろうなと、思う
頭痛は波のようにひどくなったり軽くなったりを
繰り返した
けれど僕よりもひどい高山病に健太郎君がなってしまった
頭痛より吐き気がひどいらしく
はじめはお腹の調子がよくないと言ってたのが
頻繁に外に吐きに行きだして
とうとう寝込んでしまった
幸いにもやよいさんが高山病の薬をもっていたので
僕も健太郎君も服用したが
良くなる気配すらない
健太郎君はもう胃の中に吐くものがないのに
激しく嗚咽し、胃液だけを吐いた
僕の頭痛もひどくなり
歩いても治まらず、ついに横になった
日が暮れて外は風邪が強くなり始め
砂漠のような荒れ地だった辺りは砂埃で何も見えない
楽しみだった満天の星どころではない
おまけに急激に冷え込みが襲う
小屋内のストーブを付けたい
宿の人間がストーブの燃料をもってくる
ヤクの糞だ
木などの燃料が乏しいチベットでは
家畜のヤクの糞を家の壁に貼り付け乾燥させて燃料にする
ここでそれを体験することになるとは
糞といっても臭いはない
ただ、燃え尽きるのが早い
めいっぱいストーブに放り込んだ糞も
1時間もすれば燃え尽きる
この調子だと1時間おきに誰かが
燃料をくべなければならない
僕と健太郎君は完全に高山病患者
日本で看護婦をしていたというやよいさんの存在が
どれほど心強かったことか
剛さんもつきっきりで看病してくれて
感謝します
小屋の外は砂埃を舞いあげる風の音が鳴り
小屋の中はうなされる健太郎君の声が響いた
もちろん電気もなく、ロウソクの明かりの中で
眠ったような眠れないような夜を過ごし
一晩中頭痛と寒さが身体を痛めつけた
明日は健太郎君の体調を考慮して朝一でラサに帰る
こんなにも夜明けが早く来てほしいと
懇願した夜はない