ヘイ・ストゥーピッド ② | 小説製作所 FELLOW'S PROJECT REBEL

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 深夜帯シフト明けの翌日はやはり眠い。たとえ、淡い憧れを抱いている人の部屋を尋ねるとはいえ。
 連絡先は、LINEの交換だけで済ませた。今思えば、どこか事務的だった。彼女の家は、レンタルビデオ店からほど近いマンションだった。同じ大学とはいえ、真昼間とはいえ、いきなり部屋に男を上げるというのは、どうなのだろう。まったく警戒されていないというか、まるで気の合う同性の友達のような感覚だ。

 306号室。表札には藍原と記されている。
 チャイムを押すと、彼女がドアを開けて迎え入れる。格好は、少しよれたシャツの上に薄手のカーディガンを羽織っており、下は七分丈の裾がラッパ状に広がった風通しのよさそうな綿のズボンを履いている。オシャレというよりは機能性を重視しているように見えた。

「近いでしょ。ここ」
「うん」

 髪型はヘアゴムで後ろに束ねただけのシンプルなおさげ。実験授業で見たヘアスタイルと同じもの。そして見慣れた太い黒縁の眼鏡をかけていた。
 部屋の内装をきょろきょろと見まわす。

「なに、そんな珍しい?」
「いや……、こういうの初めてだから」

「あんまり女の子っぽい部屋じゃないから、後の参考にはならないよ」

 たしかに、想像したよりはすごくシンプルな部屋だ。
 床には、控えめな花柄の絨毯が敷いてあり、その上には長方形のテーブルと、身体にフィットして窪む巨大なビーズクッションのようなソファーがある。ソファーのちょうど向かいに薄型の液晶テレビモニターがラップトップのPCに繋がれている。あとは三段ボックスが壁沿いに並べられていて、ベッドがあるくらいだ。ところどころ生活感はあるが、なんというかモデルルームのようなシンプルさだ。
 三段ボックスにはレースカーテンがされていて、中に並べられているものが見えなくなっている。「ジャーン」とご丁寧に効果音を付けて、彼女はカーテンを開いた。中には想像した通り、彼女の秘密があった。

「レンタルで吟味して、気に入ったら買ってるの。サスペンス・スリラーに分類されるけれど、ハンニバル・レクター関連は全シリーズ揃えている。好きなのはジェイソンにフレディ。ファイナル・デスティネーション。メジャーなところだと、スティーブン・キング原作は必ず見るというか、見ちゃうかな」

 DVDケースはどれもこれもおどろおどろしいものや、禍々しいものばかり。
 しかし、背表紙をなぞったり、たまに取り出してくるくるとDVDケースを表裏と返しながら語るその声は、浮ついていて歌を歌うかのようにも聞こえる。

「だけど、B級のスプラッタ作品が一番ツボかな。見ていて低予算と分かるチープさが癖になるの。あと脚本がツッコミどころ満載なのも。ダミーの死体よりも血糊の方が安いからと、わざとオーバーに血糊を使ってダミーは冷静に見ればマネキンなのが丸わかりだったり。これなんか最高」

 彼女が見せてきたのは、‘ザ・人間爆弾’というなんとも悪趣味なタイトルだ。

「怪しいサイトで注文したチーズを肴に飲み明かしたおバカな7人の男。変な味のするチーズだと思いながらも全部食べてしまう。しかし、それはテロ組織が開発したプラスチック爆弾。そして7人はその瞬間から興奮すると爆発してしまう人間爆弾になってしまうのだ。果たして7人は、興奮せずに生き残れるのかっ!?」

 聞いているだけでバカバカしい。これがスプラッタ映画ということは、何人かは爆発して肉片が飛散するという悲惨な最期を遂げるのだろう。

「中盤は、ほんとお下品よ。あまり言いたくないくらい」

 そう言って笑う彼女の顔は、悪ガキみたいにヤンチャだ。右の頬にできるえくぼが愛らしい。

「なんで、スプラッタ映画が好きなの?」
「――なんでだろうね。ひとり暮らしし始めてだから結構最近かな。好きになったのは。始めての親元を離れた暮らしでテンション上がっててさ。ひとりでテレビ見ながら徹夜してた。時計の針が深夜2時を指しただけで、興奮してた」

「ああ。今、私。悪いことしてるんだって」

 ヤンチャな笑顔に似つかわしい、悪戯心のような、ちょっとした背徳感。
 大学で見た彼女は聡明な優等生。レンタルビデオ店で見たのは、恥ずかしがり屋さん。そして、今目の前にいるのは、ヤンチャな悪ガキ。なんとも表情が豊かだ。 

「――チャンネルを回すといろんな番組があった。過激だったり、チープだったり、お下品だったり、エロかったり。そんな中で血みどろの映画を見たの。――死霊のはらわた」

 その映画は名前だけは聞いたことがあった。彼女の話によると、後のスパイダーマン三部作で一躍有名となった映画監督サム・ライミのデビュー作であり、その蘊蓄うんちくには思わず声が出てしまった。

「強烈だったわ。訳も分からず釘付けで。それからもう病みつき」

 感慨深そうに、‘死霊のはらわた’のDVDのジャケットを撫でる。
 ちょっとした背徳感と、恐怖感、とんでもない刺激と強烈なヴィジュアル、オーバーな流血と不謹慎なブラックユーモア。夜更かしをしたことがないというほど、純だった彼女にとって、そういった尖ったものは、魅力的だったのだろう。

「ちょっと分かるかも」
「そう?」

「僕も中学んとき、ヘヴィメタとかに凝ってたし。なんか似てるかなって」
「いいよね。私も好き。ヘーイヘーイヘイヘイ……」

 彼女の歌った一節でピンと来た。アリス・クーパーの‘ヘイ・ストゥーピッド’だ。

「「ヘイ! ストゥーピッド!」」

 そこで声を合わせると、彼女は跳ねるように喜んだ。なんか、やっと恋人同士のような感覚になった。でも昨日誘ったとかじゃなくて、すっかり恋仲の絶頂のような。不思議な感覚だ。
 極端に自分と違った存在に自己を没入させる。文字通り、バカになる感覚。――ちょっと興味が湧いてきた。

「僕も何か見ようかな」
「ほんとっ!!?」

 軽い気持ちで口から出た言葉をひっつかまえんと、僕に向かってとびかかるがごとく顔を鼻先まで近づけてきた。

「う、うん」

 勢いに押されがちになりながら、頷くとすぐさま何を見るかと尋ねてきた。僕は、この手のジャンルには明るくない。だから、彼女のおすすめが知りたかった。

「あ、でもちょっと軽めのやつで」
「わかった」

 ――それから悪趣味な映画鑑賞会は、頻繁に開催された。
 何回か鑑賞会に参加するうちに、ふたりは下の名前で呼びあうようになった。‘汐里しおり’と‘俊輔しゅんすけ’。会場は、汐里の部屋のときもあれば、僕の部屋のときもあった。
 色んなためにならないことを教わった。バカな役や、ムカつく役が餌食にされる場面は、笑うこと。お調子者の男と巨乳の女がいちゃつくと、きまって次のカットでふたりとも餌食になること。ドラッグの種類、お下品なアメリカンジョークと、スラングを少々。――スラングはもしかしたら、なんかの役に立つかもしれない。
 安い発泡酒や缶酎ハイを飲みながら、真っ赤な映画を見るふたり。

 カラオケに入って、ふたりで酔いながらデスボイスを練習したり。ガラガラ声になったお互いをバカ笑い。
 腹を抱えて笑った。ふたりしてバカになった。
 騒がしい日々は、あっという間に過ぎた。

「俊輔、ごめん……」

 僕の部屋の玄関先で、彼女はその言葉を吐いた。
 ついさっきまでいつものように、おバカで血みどろの映画を見ていた。拷問に勤しむ外科医が、なぜかチェーンソーを取り出す場面は、一緒になって笑ってしまった。あんなに笑っていた彼女が、途端に神妙な顔つきになった。

「……もう、会えない」

「え……」

 開いた口から空気が抜けるような、間抜けな声が出た。口元と眉がぴくぴくと痙攣する。僕の中ではそれは狼狽えの表情だったけれど、汐里はそれを怒りの表情と捉えたかのように、うなだれて後ずさりをした。

「……、彼氏がしびれ切らしちゃって、同棲しようって」

「……、は……?」

 突然の告白で頭が真っ白になる。
 ほんのさっきまで、彼女にとってのそれは、他でもない自分だと思っていた。いや、今もそう思っているのかも知れないけれど。そう思いたいけれど。そうではないと夏の夜風が囁いていた。

「ごめんなさい。黙ってて……私、彼氏がいて……高校ときからずっと付き合ってて。こ、この前まで……アメリカに留学してたの。今帰って来てて。帰ったら一緒に住もうって約束してたから。――だから、だからその……ごめん……」

 彼女がつらつらと述べる言葉の間に、僕の荒い息が入る。肩が上下している。

「はは……、なんだよ。それ……。なんなんだよ」

 自分の部屋に子供が入ってきて、さんざん遊んで散らかした挙句、バイバイと去っていく。そんな心持だった。

「……、怒るよね……。そうだよね……。しちゃったね。悪いこと。それも、取り返しがつかないくらい、悪いこと」

 彼女の勝手さに対する怒りというか、それよりもなんだか急に緊張の糸が切れてどっと疲れがぶり返して来たかのような。両の肩に重荷がずしんと乗っかって、その場に立っていられなくなった。

「ごめんなさい。私……、俊輔に甘えてた。彼氏と付き合ってたのは、高校の頃の私で、悪い子になる前だった。遠い存在で、かっこ良くて。だけどきっとそのままの私を見てくれない……。それまで連絡なんて寄こしてくれなかったのに、帰る間際になって急に忙しなく電話かけてきて。嬉しかったけど、ひとりにされてる間に悪いことを覚えた私は、なんだか分からなくなった……そんなときに、俊輔に声かけられて。私……浮かれてた。私が彼氏のために否定していた自分を、俊輔は肯定してくれた。だから、凄い楽しかったよ。今までのこと全部嘘にしちゃったけれど、これだけは本当」


「ありがとう、俊輔」


「……、なんだろうな。どっと疲れたよ。怒る気も起らないくらい」

 何にもされていないのに、何発かボディーブローを喰らわされた気分だ。
 パンチドランカーのように、視界はくらくらとする。足取りはふらふらだ。壁に手をついて、自分で自分を嘲笑った。熱帯夜のもわもわした熱気が、開けっ放しにした玄関から部屋の中へと入っていく。僕は、玄関の壁にもたれて、汐里はドア向かいの柵に背中を預けていた。
 静寂の中で、耳は雨脚を捉えた。
 空気の湿度がぐっとまし、僕の頬をわさわさと撫でた。

 僕にとんでもない悪さをしでかした悪魔は、その場を去るでなく、なぜか項垂れたまま動かなくなった。

「勝手にしろよ」
「そうだね。目障りだよね」

 かすれた声でそう言うと、すくっと立ち上がる汐里。
 僕はまだ、脚に力が入らない。

「……、じゃあ、行くね」
「待てよ」

 座ったまま、視線をずっと下駄箱に注いだままで汐里を立ち止まらせる。
 ひとつ言い忘れていたことがあった。僕を振った相手だ。そう考えると、とんでもなくバカげた言葉。

「僕も楽しかった。――ありがとう。これからは勝手にしてくれ、好きなところに行ってくれ。なんだろうな。汐里がはっきりしてくれないと、分かんないよ。どうしたらいいのか。ちゃんと言ってなかったし。今頃になって言うけどさ」


「汐里のことが好きだ。ここでもう何もかも頭真っ白けになって、何にもできないくらい、汐里のことが好きだ」

 きっと、汐里のバカが移ったんだろう。

「――、俊輔。私、悪い女だよ」
「知ってる。だけど、関係ないだろ」

「ありがとう。じゃあ、行くね」
「待って!」

 なぜだか急に足に力が入って立ち上がれるようになった僕は、反射的に汐里にビニール傘を差し出していた。夜雨はごうごうと唸っている。汐里は今日、傘を持っていなかった。それらを咄嗟に判断して、身体が勝手に動いてしまったらしい。我ながら、とんでもない優男だ。

「あ、ありがとう」

 そういって汐里は、体温を感じ取るように僕の掌を撫でながら傘の柄にたどり着く。汐里の体温が、傷に沁みるように感じた。噛み締めるようにして、汐里はもう一度呟いた。

「ありがとう。本当に」

 そのとき、汐里は泣いていただろうか。――バカな。そんなの、目の錯覚だ。だいいち、眼鏡の奥の彼女の表情なんて、見えやしない。

 ヘーイヘーイヘイヘイ。ヘイ! ストゥーピッド!

 頭の中でアリス・クーパーがその一節だけを歌い上げた。

「ヘーイヘーイヘイヘイ。ヘイ、ストゥーピッド」

 僕も、調子外れた声で一緒に歌った。
 部屋の中に戻ると、一緒に見ていたスプラッタ映画が二周目の再生に入っていた。男の心臓が抉り出されるシーンだった。――そして、僕は呆けるように画面に見入り、同じ映画を二回見た。

 神様がそう差し向けたのか。そのころちょうど、研究室配属が決まり、卒業研究に勤しむようになった。講義とそれ以外の有り余る時間という大学生の生活スタイルは、一日の大半を研究室に身を置く卒研生の生活スタイルへと変わり、汐里と顔を合わせることはなくなってしまった。
 そして、汐里はもちろんバイト先のレンタルビデオ店にも来ない。
 汐里と別れてから、スプラッタ映画を借りる客をあまりに見なくなった。代わりになぜか、僕が借りて見ている。まるで、染みついた習性のように、血みどろの映画を見ている。
 汐里と会わなくなって、三週間が過ぎた。
 僕は、汐里と過ごした夏のままで、秋を生きている。――もっとも、外はまだ残暑が厳しく、もわもわとした熱もしぶとく居座っている。秋雨も手伝って、湿度もまだ高い。僕の心もまだ、熱病を患ったままだ。

 ――バイトが入っていない日は、深夜まで実験をすることもある。あれほどかったるかった講義の内容が、実際に研究に出てくると、どうしてか面白い。その日は、雨が降るまでに帰るつもりだったのに。長引いてしまって、雨に降られた。学内のコンビニでビニール傘を買う。どうしてかな。帰って来ていないあの傘と同じ型だ。
 雨は傘をざあざあと打つ。バケツをひっくり返したような雨だ。家に着くころには、脚が膝から下はびっしょりと濡れてしまった。じゅぽじゅぽと歩くたびに音を出すスニーカーがなんとも気持ち悪い。

「これは、明日までに乾かないな」

 自分が歩いたあとのコンクリートが、色が変わってしまっているのを振り返る。そして、もう一度向き直ると自分の部屋のドアの向かいの柵に背中を預けて座り込む影がいた。見覚えのある格好だ。
 目を擦り、何度も瞬きをした。遅くまで実験をしていたから、目が疲れていたのかも知れない。だけど、その人影は見れば見るほど懐かしい姿をしていた。太い黒縁の眼鏡。よれたチェック柄のシャツ。色気のないジャージのパンツ。そして、彼女は帰って来ていないあのビニール傘を携えていた。

「――、し……、汐里……?」

「俊輔……、返しに来たよ」

 わざわざ返しに来たのか。たかが、ビニール傘一本ごとき。――律儀な女だ。

「そっか。――なんで今頃。彼氏は?」
「同棲して一週間でおじゃん。結局ほとんど会話という会話しなかったし。彼は遠い世界のことを話して。それで終わり。――すっごく、息苦しかった」

 すくっと立ち上がって、ひと月前に貸したビニール傘を僕に差し向ける。一本税込み540円の、どこのコンビニでも買えるようなビニール傘だ。

「本当に、傘返しに来ただけなのか」

 ようやく忘れようかと思っていた矢先に拍子抜けだ。
 また熱病がぶり返しそうになりながらも、そう尋ねずにはいられなかった。

「傘だけなら、きっと返さない。あのとき、俊輔にもらって、私が返していないものがあるから。それを言ったら、帰るね」

 すうと息を吸い込むと彼女の肩は、寒さに凍えるようにふるふると震えた。眼鏡の奥で、汐里の瞳に水が満ちていく。汐里は、胸の内に秘めた想いを、湧水とともにほとばしらせた。

「わ、私も俊輔が好き。自分から振っといて、ひどいことしておいて、訳も分からないままこんなとこまで、のこのこやってくるくらい、俊輔のことが好きっ」

 最悪だ。熱病がぶり返した。
 僕は半ば自嘲の意も込めて、腹を抱えて笑った。

「それがお返しか。それで、自分の気持ち吐き出して、踏ん切りつけて帰るってか。こっちは、さんざんかき乱されて、たまったもんじゃねえよっ」

 また、動き出しそうな汐里の口。
 さんざん僕を困らせた彼女は、僕の復讐心に火をつけた。僕は、前につんのめって彼女によりかかり、背中に手を回し、長い髪の匂いを嗅ぐようにして、彼女の体温を全身で受け止めた。彼女の背筋が伸びて、きゅんとイルカが鳴くような声が聞こえた気がした。

 僕は、汐里を困らせたかった。
 さんざん人の気持ちを弄んで、捨てた挙句に、また現れて、今さら好きだなんて言う勝手な女だ。最悪だ。僕の熱病はぶり返してしまった。
 だから、僕は汐里を困らせたかった。

 だから、帰してやらない。帰すもんか。

 だけど、今度は汐里が僕の背中に量の腕を回した。そう、汐里は僕の復讐を笑ったんだ。僕は、「僕はバカだ。大バカだ」と自嘲した。

 汐里は悪い女だ。こうなることを望んで、汐里はここに来た。
 だって、そうだろう。そうでなきゃ、安いビニール傘をわざわざ返しになんか来ない。僕は汐里が仕掛けた罠に、大喜びで飛び込んだんだ。

 汐里は泣き笑いながら、僕の背中を抱きしめる腕の力を強めた。

「私、女の子っぽくないよ」
「知ってる」

「スプラッタが好きな変な女だよ」
「知ってる」

「ダサい眼鏡かけた女だよ。おしゃれに無頓着な女だよ」
「知ってる」

「悪い女だよ、ひどいことした女だよ」
「全部知ってるよ。汐里のこと好きだって言ったの、それ全部知ってからだったろ?」

「……、バカ……」

 また、僕の頭の中でアリス・クーパーが歌っていた。

 ヘーイヘーイヘイヘイ。ヘイ! ストゥーピッド!