またしても、通勤本には不向きな一冊なのだが・・・。

何故「不向き」なのかと云うと、
ハードカヴァーだからである。
満員電車で読むには邪魔な大きさ。
片手で持つには重い。
内容も重い・・・。
朝から読んでいると、
仕事中でも、ふとした事で考え込んでしまいそうになる。

だが、しかし。
敢て紹介したい。

奥野 修司
心にナイフをしのばせて



1969年春。
神奈川県の私立高校で、事件は起きた。
生徒が、肩に傷を負って校内に駆け込んできた。
「裏山で、知らない男達に突然襲われた!」
「加賀美君がやられている!」
現場に駆けつけた教師達が見た光景は・・・。

凄惨な遺体。
「知らない男達に襲われた」
と云っていた少年の証言は嘘だった。
同級生を殺害した真犯人は
第一報をもたらした生徒(少年A)だった。

本作は、被害者家族の立場を克明に浮き彫りにしている。

容赦ないマスコミや周囲の好奇な視線。
被害者が受けた深い傷に対するフォローがなされない現実。

法(少年法)は
加害者を守る事(更正させ、社会復帰させる事)には手厚い保護を行うが、
被害者に対しては無関心だ。

読み進めていくうちに、
以前にもチラッと紹介した 本を思い出した。
中嶋 博行
罪と罰、だが償いはどこに?
である。

30年近く経っても癒されない被害者家族の心の傷。
被害者家族に対して一言の謝罪の言葉すら発しようとしない加害者(少年A)。

事件を切っ掛けに「家族崩壊」寸前にまで追いやられ、
未だ苦しむ被害者家族。
少年法に守られ、前科も付かず、今や弁護士として地元の名士となっていた加害者(少年A)。

何か間違っていないか?
何か変じゃないか?

違和感を感じるのは私だけか?

いぃや。
著者を始め、およそ本作を読んだ人達の多くが感じた筈だ。

被害者の母は云う。
被害者の妹は云う。
「少年Aを恨んだ事は無い」
と。

恨む事=事件を思い出す事

受けた傷によって壊れかけた心を取り戻す事で精一杯だった。
事件によって壊れかけた家族の絆をつなぎ止める事で精一杯だった。

犯人に対する一切の思いを心の奥底に封じ込める事で、
やっとの思いで、私達は生きてきたのだ。
と。


映画『太陽の傷』 では、
被害者が加害者に対し、恨みを晴らした(と思う)。
だが、そんな事は現実ではまずあり得ない事だと思う。

打ち拉がれた犯罪被害者達の多くは、
加賀美家の様に、心に傷を負ったまま、その人生をそっと生きているのだろう。

これが現実。



今、少年法の改正が議論されつつあるようだ。
だが、それは全く持って被害者の立場に立っていない。
司法はあくまでも「犯罪者(少年)の更生」を謳うのか?
私達国民の血税を「更正の為の費用」に費やすのか?

犯罪者の更正
よりも
犯罪被害者のケア
に重点を置くべきだと思うのは間違っているだろうか?

著者が最後に述べている。
犯罪者が「更正」したと云えるのは、
犯罪被害者が、その加害者を「許した時」だと。
逆に言えば、
加害者が、その被害者から「許しを得た時」ではないのか?
と。