日光街道の宿場町を巡って「御宿場印」を集める企画。

約3ヶ月ぶりの再開です。

 

第八宿である「中田宿」の周辺には鉄道の駅が無いので、一つ前の第七宿「栗橋宿」の最寄り駅であるJR栗橋駅へ。

 

 

路線バスの本数も少ないので、栗橋駅から徒歩で向かう事にしました。

 

 

約三か月ぶりに訪れた栗橋の街を抜けていきます。

 

 

行く手を遮ったのは、栗橋宿と中田宿の間を流れる利根川。

 

かつては「坂東太郎」と呼ばれた暴れ川でしたが、現在は穏やかに流れています。

 

 

江戸時代、江戸を守る軍事的理由から、大きな河川には橋を架ける事が許されませんでした。

 

その為、日光街道を往来した人々は、この数百メートルもの幅のある川を渡し舟を使って渡河したそうです。

 

現在は自動車道路と、それに並行する歩行車道のある橋が架けられ、簡単に往来出来ます。

 

 

歩いて渡るには少し長めで、特に暑い日には渡りたくない橋。

 

ちょうど、この日のように天気の良い日には(笑)。

 

日光街道で唯一の関所が設けられ、唯一の渡し舟があった、この場所は武蔵国と下総国を分ける国境でもありました。

 

そして、現在は埼玉県と茨城県の県境となっています。

 

橋を渡り始めると、すぐに見えたのは、

 

 

埼玉県の県鳥であるシラコバトのプレート。

 

そこから数分後、橋の半ばを過ぎた頃に、

 

 

ここから茨城県。

 

橋を渡り切る手前には、

 

 

今度は茨城県の県鳥であるヒバリのプレートがありました。

 

橋を渡ったところに「中田御関所跡」の案内板。

 

 

江戸時代、日光街道が整備されたのに合わせ、江戸へと向かう旅人の通行手形や荷物などを厳しく取り調べた関所が設けられました。

 

当初は中田宿に関所が置かれていましたが、やがて川の対岸にある栗橋宿に関所は移され、「栗橋の関所」という呼び名の方が知られるようになっていきました。

 

 

 江戸時代の中田宿があったのは、現在架かっている橋の下で、河川敷になっている場所。

 

約500メートルほどの区域に旅籠や茶店などが立ち並んでいましたが、ほとんどが農家との兼業だったそうです。

 

規模は小さめで、隣の栗橋宿と合わせて「栗橋・中田宿」として一つの宿のように扱われていたようです。

 

 

現在は県道228号になっている道を歩いていくと、

 

 

目を引く大きな看板が。

 

 

かつて中田宿の鎮守だった鶴峯八幡宮です。

 

 

創建は平安時代末期。

 

平家打倒を掲げた源頼朝の挙兵に呼応した下総国の豪族達が、丘の上にあった御稲荷様に先勝を祈願したところ、その後の富士川の合戦で勝利。

 

武運の御神徳を感じた頼朝によって、鎌倉の鶴岡八幡宮から分霊した鶴峯八幡宮が建てられました。

 

 

こちらで中田宿の御宿場印が頂けるという事で、さっそく社務所へ。

 

ところが…

 

 

コロナウイルスの影響で、社務所が開くのは午後のみ。

 

私が訪れたのは午前10時半過ぎだったので、これは困りました。

 

あと2時間ちょっと待っているか、それとも出直すか…。

 

どうしようか決めかねていると、

 

 

書き置きの御宿場印が、ちゃんと用意されていました。

 

ほっと一安心して、ちゃんと代金を募金箱に収めます。

 

 

中田宿の御宿場印、無事に入手できました。

 

 

とりあえず、日陰で一休み。

 

体力回復してから、また次の宿場町を目指します。