仙台にある宮城県庁の近く、勾当台公園の片隅にあった銅像。
江戸時代の学者、林子平の像です。
西暦1738年、江戸の幕臣の家に生まれた子平。
姉が仙台藩主の側室に取り立てられ、兄も仙台藩に仕官が決まると、それに従った子平も仙台藩士になります。
藩に対して教育・経済に関する政策を進言するものの、全く受け入れられなかった子平は、藩士の身分でありながら藩からの禄(給料)を受けず、兄の家に居候する「無禄厄介」という立場となりました。
そんな自由な立場を活かし、日本全国を旅行して見聞を広めた子平。
江戸や長崎で蘭学を学び、世界情勢を知るにつれて、諸外国に対する日本の国防意識の薄さを危惧するようになっていきます。
数々の地理書や政論書を自費出版して、ロシアやヨーロッパの脅威に備える為に蝦夷地や江戸湾の防備を固める事を訴えました。
ところが、その頃は、海外からの圧力など全く感じられない平和な時代。
まさか、数十年後の幕末に黒船がやってくる事など、誰も予想すらしていませんでした。
幕府の政策にケチを付け、世の中を扇動して乱す危険分子とされた子平。
出版した書物は発禁処分とされ、原本となる版木も全て没収されてしまいました。
子平自身も仙台に送り返され、兄の家で謹慎生活を過ごす事となりました。
その時の気持ちが、
「親も無し 妻無し 子無し 版木無し 金も無けれど 死にたくも無し」
いわゆる『六無の歌』と呼ばれている和歌として残されています。
そんな不遇な立場のまま、西暦1793年、仙台にて病死。
ちょうど子平が仙台に謹慎した頃、北海道の根室に来航したロシアの使者が開国と通商を要求してきます。
そして、幕末になると、ご存知、黒船に乗ったペリー提督が開国要求。
その時になり、ようやく林子平の思想・国防意識が評価されるようになり、子平が訴えていた通りに、蝦夷地が開拓され、江戸湾の防備が固められていくようになります。
まさに「時代の先を読み過ぎた故に、異端扱いされた男」だったんですね。