子供の頃、よく「北枕は縁起が悪いから駄目だよ」と言い聞かされていました。
お釈迦様が亡くなった時に頭を北側にしていた事から、
亡くなった人を安置する時だけ北枕が許されるけれど、
生きている人間は北を向いて寝てはいけない、という話でした。
その事から、どうしても「北」は不吉、不浄な方角だというイメージがあったのですが、
大人になってくる過程で、どうやら迷信らしいという事が分かってきました。
「北」は神仏の宿る方角であり、
死者を北枕にするのは「安らかに眠ってほしい」という、むしろ良い意味らしいです。
吉野ケ里遺跡は、弥生時代にあった集落の遺跡であり、
その頃は仏教が伝わってくる前の事なので、全く関係ないと思われますが、
集落の最北部には死者を弔う墓所があります。
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司祭者の住む「北内郭」を出て、更に北へと進むと、
これまでとは違った、ちょっと異質な風景が広がっていました。
この集落で亡くなった人を埋葬している墓所「甕棺墓列」です。
弥生時代、この九州北部だけに見られた埋葬の形で、
素焼きの土器の甕の中に遺体を納め、地中に埋める土葬が行われていたそうです。
遺体を納める棺としては、ちょっと小さ過ぎるんじゃないかと思いますが、
弥生時代の人は、現代よりも小柄な人が多かったそうなので、
この大きさでも大丈夫だったのかもしれません。
手足を折り曲げ、いわゆる「体育座り」のような姿勢で納められていたそうです。
もちろん、これは当時の形式を再現されたもので、本物の墓所ではありませんが、
正直なところ…あまり良い気分で見学は出来ませんよね。
こういった墓所は、吉野ケ里遺跡にある丘陵のあちこちに点在していたようで、
全て合わせると15000基以上の墓所があったそうです。
そんな中でも、この「甕棺墓列」と呼ばれている区域には墓所が集中していて、
ここだけでも2000基もの甕棺が、約600メートルもの長さに渡って並んでいます。
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弥生時代から奈良時代にかけての古代日本では、
「王」や「天皇」といった最高支配者は、
土を高く盛り上げた丘陵型の特別な墓所に葬られていました。
いわゆる「古墳」ですが、その原型となったのが弥生時代の「墳丘墓」。
吉野ケ里を納めていた歴代の「王」達も、うず高く土の盛られた墳丘墓に葬られました。
この「北墳丘墓」と呼ばれている墓所からは、
歴代の王が納められた14基の甕棺が見つかっていています。
弥生時代の末期には墓所として使われなくなりましたが、
先祖の眠る大事な場所として、集落に住む人々から信仰を受ける対象となりました。
北墳丘墓を訪れる時は、地面を掘り下げて作られた専用の参道を通っていたそうです。
北墳丘墓の前に立っている柱には、
集落を守る先祖代々の霊が宿っている、と考えられていました。
その脇に建てられているのが、
祖先の霊にお供え物をして、祈りを捧げる為の「祀堂」と呼ばれる建物。
昔の人々にとっては、
人間が生まれ、生きて、死んで、葬られ、祀られる、という一連の流れが、
毎日の生活と密着に関わっていた事が良く分かります。
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現在、「北墳丘墓」の内部は、誰でも無料で見学する事が出来ます。
かつて信仰の対象となっていた場所に、
しっかり鉄筋コンクリートで固められた入口が作られています。
中に入ると、発掘調査が行われている様子と、ここから出土した品々の展示など。
これは、再現したものではなく、おそらく本物の甕棺。
このように、二つの甕をくっ付けて作った棺に、
こんな感じに納まっていたようです。
人形とは分かっていても、妙に生々しくて正視できません…。
急いで写真を撮り、一通り見て回ると、さっさと外へと出てしまいました。
こういう厳かな空気の場所に独りぼっちで居るのは、
いい歳したオッサンでも落ち着かず、不安になってくるものですね。
※吉野ヶ里遺跡 訪園記
(4)北墳丘墓