日本100名城の一つに数えられる「吉野ヶ里遺跡」を訪れたのは、
今から2年前、2015年の5月でした。
1980年代、佐賀県吉野ヶ里町に工業団地を建設する計画がスタート。
しかし、地面を掘って調査したところ、次々と歴史的価値のある遺跡や発掘品が出土。
本格的な調査が行われると、広大な範囲に及ぶ弥生時代の遺跡が発見されました。
結局、工業団地の計画は中止。
国の特別史跡として保護される事となり、国定歴史公園として整備されました。
あまりにも広い遺跡が発掘されたので、
当初、「ここが邪馬台国なんじゃないか?」とか、
「九州に大きな王国があったんじゃないか」などと様々な説が唱えられ、
長年に渡って、歴史研究家の間で論議が交わされてきましたが、
結局「大きな集落があっただけ」という結論に落ち着いたようです。
現在、遺跡は地中で保存されていますが、
その上に当時の住居や倉庫、櫓などを復元したものが展示されていて、
弥生時代の集落の様子を再現しています。
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佐賀駅からJR長崎本線に乗り、約15分ほど.。
たった3駅の移動なのに、県庁所在地である佐賀市とは全く違う景色が広がっています。
駅を出て、遺跡のある吉野ケ里歴史公園までは直線一本道。
道案内の看板もありますが、それも必要ないように感じる一本道です。
そこそこ長い直線なので、
途中で不安に思い、ついつい曲がってみたくなる気持ちも分かりますけど。
ひたすら歩き続けていると、公園の入り口に到着しました。
入り口付近には目立った看板や案内表示は見られず、普通の公園と変わりません。
受付で入園料400円を支払い、入口ゲートを抜けると、いきなり景色は一変。
豊かな緑に覆われた遺跡へと向かいます。
弥生時代にあった、一つの集落の様子を再現している『吉野ケ里遺跡』。
そんな大昔の時代でも土地や物資を巡る争いはあったようで、
自分の集落を守るための様々な工夫が見られます。
集落の入口など重要な箇所には空堀が掘られ、
尖った木の幹や枝を何本も突き立てておく事で、外部からの侵入を拒んでいます。
でも、これって上から侵入してくる者には有効でも、
同じ高さで歩いてくる者には大して効果がない気がするんですけど…。
例えば、高い壁を越えた人間が地上に降りようとした時、
こんな尖った杭が壁の内側に立ち並んでいたら、かなりの恐怖を感じるでしょう。
一方、空堀を越えて下から侵入した来た人間は、
並んでいる杭の隙間を普通に通り抜ければいい訳で。
もしかしたら、高い土塁や柵と組み合わせて使われていたのかもしれませんね。
そんな事を想像しながら歩いていると、いきなり目の前に…
鹿、出現!
さらに、
イノシシの親子も。
よくよく見れば作り物だと分かるのですが、不意に目の前に現れると、結構驚くものです。
いい歳したオッサンが、思わず声を出して飛び退いてしまったのは、ここだけの秘密(笑)。
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順路に従って園内を進んでいき、
辿り着いたのは、集落の最も南に位置する「南のムラ」と呼ばれている区域。
ここは、いわゆる「庶民」の住んでいた区域。
水田や畑で農作業をしたり、その農耕に使う農具や生活用品などを作る事で、
集落の北部にいる支配層の人々の生活を支えていました。
遠い昔、歴史の教科書で習った「竪穴住居」や「高床式倉庫」などが多く並んでいます。
こちらは「竪穴式住居」。
地面を掘り下げた半地下に住居スペースを作り、
そこに何本かの柱を立てて、葦や藁で作った屋根を乗せたもの。
再現された住居のうち、いくつかは内部を見学できます。
残念ながら入り口は狭く、図体のデカい私のような人間は侵入困難なので(笑)、
入口から内部を覗き込むだけにしておきました。
一方、こちらは「高床式倉庫」。
収穫した穀物や、製作した道具などを収納しておく倉庫。
地面から離れた高い場所にある事で、
雨の浸水を防いだり、ネズミや害虫の侵入防止、湿気対策などの効果がありました。
同じ「庶民」の中でも身分の上下関係はあったようで、
ムラをまとめる「ムラ長」一族は、他よりも大きな住居を何棟も所有しているだけでなく、
その敷地内には大きな倉庫や集会場なども建てられています。
現代でも、暑い地域の国々では、こういう形の住居の形式が見られますよね。
リゾート地の、ちょっと洒落たホテルとか。
こういう場所で一夜を過ごすのも面白いんでしょうけど、
テレビもエアコンもない状況では、現代っ子でインドア派の私は無理かも(笑)。
※吉野ヶ里遺跡 訪園記