吉野ケ里遺跡の中心地である「内郭」

集落を支配する指導者達が生活していた区域で、北・南の二か所に分かれています。

 

中世の城跡に例えると、本丸・二の丸部分に当たる部分ですね。

 

「南内郭」は、集落の主である「王」と、その周辺の人々が生活していた区域で、

庶民の住んでいる区域とは明らかに雰囲気が異なります。

 

 

南内郭の周囲は高い柵と掘で厳重に囲まれていて、警備体制は万全。

 

 

 

入口にある櫓門の上には常に兵士達が常駐し、出入りする人間を見張っていたそうです。

 

 

その他、内郭の中にも複数の物見櫓が立てられていて、

集落全体の監視や、外部からの侵入者に備えて目を光らせていたようです。

 

 

 

櫓門と物見櫓には、実際に上る事が出来ます。

 

物見櫓から周囲を見回してみると、

周りに高い建物が何もないので、かなり遠くまで見渡す事が出来ました。

 

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集落の支配者である「王」と、その周辺の人々が住んでいた住居は、

南内郭の片隅に密集して建っていました。

 

 

最初に訪れたのは、軍事や工事を取り仕切っていた「大人(だいじん)」の家。

外見を見る限り、庶民の家と大して変わらない竪穴式住居に見えます。

 

 

ここも狭くて低い入口ですが、何とか身を屈めて、中を覗き込んでみました。

 

 

何やら長い棒や板などが並べられている中、三人の男達が道具を作っているようです。

 

妙にリアルな人形が薄暗い中に居て、ちょっと怖い…。

 

隣にある「大人の妻の家」も覗いてみました。

 

 

 

母親が娘の髪の毛を梳いています。

 

「大人の家」と「妻の家」があるという事は、夫婦でも別々の家に住んでいたんですね。

 

この時代は、夫が妻の家に通う「妻問婚」というのが主流だったそうです。

 

日本の夫婦の形としては、

平安時代の貴族達も、夫婦別々の家を持ち、

夫が妻の家に通う「通い婚」が一般的だったのは有名な話。

 

夫婦が同じ家に住むようになったのは、鎌倉時代の頃なんだそうです。

 

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集落のトップである「王」の家は、

周囲に柵が建てられ、ちゃんと入口の門も立てられていて、

南内郭の中でも格段に特別な場所である事が分かります。

 

 

住居の形は、庶民達と大して変わりませんけどね。

 

 

他の人々が白い服であるのに対し、色付きの服を着ている「王」と、その妻らしき女性。

勾玉などのアクセサリー類も身に付けているようで、ちょっとだけ庶民と差別化。

 

部屋の造りに特別な豪華さは感じませんが、

王の権力を示すように、様々な土器や道具などが室内に並べられています。

 

 

この時代は、物を並べたり飾ったりする棚や台は無かったのでしょうかね?

 

 

「王」も夫婦別居なので、隣に「王の妻の家」があります。

 

 

さらに、「王の娘夫婦の家」まであります。

 

 

ただ、全て同じ造りなので、全く見分けがつきません(笑)。

 

※吉野ヶ里遺跡 訪園記

(1)南のムラ

(2)南内郭

(3)北内郭

(4)北墳丘墓

 

 

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