吉野ケ里遺跡の中心地である「内郭」。
集落を支配する指導者達が生活していた区域で、北・南の二か所に分かれています。
中世の城跡に例えると、本丸・二の丸部分に当たる部分ですね。
「南内郭」は、集落の主である「王」と、その周辺の人々が生活していた区域で、
庶民の住んでいる区域とは明らかに雰囲気が異なります。
南内郭の周囲は高い柵と掘で厳重に囲まれていて、警備体制は万全。
入口にある櫓門の上には常に兵士達が常駐し、出入りする人間を見張っていたそうです。
その他、内郭の中にも複数の物見櫓が立てられていて、
集落全体の監視や、外部からの侵入者に備えて目を光らせていたようです。
櫓門と物見櫓には、実際に上る事が出来ます。
物見櫓から周囲を見回してみると、
周りに高い建物が何もないので、かなり遠くまで見渡す事が出来ました。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
集落の支配者である「王」と、その周辺の人々が住んでいた住居は、
南内郭の片隅に密集して建っていました。
最初に訪れたのは、軍事や工事を取り仕切っていた「大人(だいじん)」の家。
外見を見る限り、庶民の家と大して変わらない竪穴式住居に見えます。
ここも狭くて低い入口ですが、何とか身を屈めて、中を覗き込んでみました。
何やら長い棒や板などが並べられている中、三人の男達が道具を作っているようです。
妙にリアルな人形が薄暗い中に居て、ちょっと怖い…。
隣にある「大人の妻の家」も覗いてみました。
母親が娘の髪の毛を梳いています。
「大人の家」と「妻の家」があるという事は、夫婦でも別々の家に住んでいたんですね。
この時代は、夫が妻の家に通う「妻問婚」というのが主流だったそうです。
日本の夫婦の形としては、
平安時代の貴族達も、夫婦別々の家を持ち、
夫が妻の家に通う「通い婚」が一般的だったのは有名な話。
夫婦が同じ家に住むようになったのは、鎌倉時代の頃なんだそうです。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
集落のトップである「王」の家は、
周囲に柵が建てられ、ちゃんと入口の門も立てられていて、
南内郭の中でも格段に特別な場所である事が分かります。
住居の形は、庶民達と大して変わりませんけどね。
他の人々が白い服であるのに対し、色付きの服を着ている「王」と、その妻らしき女性。
勾玉などのアクセサリー類も身に付けているようで、ちょっとだけ庶民と差別化。
部屋の造りに特別な豪華さは感じませんが、
王の権力を示すように、様々な土器や道具などが室内に並べられています。
この時代は、物を並べたり飾ったりする棚や台は無かったのでしょうかね?
「王」も夫婦別居なので、隣に「王の妻の家」があります。
さらに、「王の娘夫婦の家」まであります。
ただ、全て同じ造りなので、全く見分けがつきません(笑)。
※吉野ヶ里遺跡 訪園記