(和歌山城 その3から続く)

 

 

江戸時代、紀州藩主を務めていた紀州徳川家。

二代藩主以降の歴代藩主は、和歌山城の二の丸に藩主御殿など多くの建物を築き、生活と藩政の拠点にしていました。

 

戦国時代は防御面を考え、山の上にある本丸を城の中心地として考えていましたが、平和な時代になると、利便性を考え、山の下にある二の丸に政治・生活拠点を移すのは、全国の城に共通する流れだったようですね。

 

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二の丸に置かれていた御殿は「表」、「中奥」、「大奥」という3つの部分に分かれていて、それぞれ役割が異なっていました。

 

 

西の丸から御橋廊下を渡っていくと、二の丸の最深部、かつて「大奥」と呼ばれていた区域に出ます。

 

 

 

江戸城にあった「大奥」と同様に、藩主の正室や側室、女中などが暮らす、いわゆる『女の園』でした。

ここに藩主の寝室があり、男性は藩主だけしか入れなかったようです。

ここでは藩主の立場を忘れ、一人の人間、一人の男として振る舞えるプライベート空間だったのかもしれませんね。

 

こうした藩主の御殿に大奥があるのは、全国の城の中でも江戸城、名古屋城、そして和歌山城くらいだったようです。

 

 

そんな大奥の手前にあったのが「中奥(なかおく)」。

こちらは藩主の公邸で、現代で例えれば首相官邸みたいなものでしょうか。

 

 

 

中奥には、藩主の居間や家老、側近、世話係の部屋、風呂、台所などがありました。

昼は「中奥」で暮らし、夜は「大奥」に戻るのが藩主の生活だったんですね。

 

 

藩主が政務を行っていたのが、御殿の中で「表」と呼ばれていた区域。

 

 

 

来客や警備係の控室、行事や集会を行う大広間、藩主が来客と面会する対面所などがありました。

それ以外にも、藩の役人の詰所や控室、執務室などもあって、まさに藩政の中心地。

 

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明治維新後の「廃城令」によって城内の多くの建物が取り壊され、二の丸にあった御殿は明治18年に大坂城へと移築されました。

 

 

その後、第二次世界大戦中の空襲を受けても無事でしたが、昭和21年に失火によって焼失してしまい、その姿は現存していません。

 

日本全国で見ても、藩主の暮らしていた御殿で現存しているものは少なく、「本丸御殿」は川越城と高知城、「二の丸御殿」は二条城と掛川城、合計して4棟しか残っていません。

 

もし現存していたら貴重な歴史的建造物だっただけに、非常に残念ですね。

 

 

 

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