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(岩村城 その2から続く)
歴史資料館を出た私は、いよいよ登城口へ。
いよいよ、山頂にある本丸を目指して、山登りの始まりです。
案内図を見て、ここからの道のりを確認。
通常の徒歩スピードで20分なら、私の足では・・・軽く40分は掛かると計算(笑)。
山に入った最初のうちは、しばらく舗装された道が続きます。
そんな道の傍らには、
こんな表示が立っていて、本丸までの距離を教えてくれます。
最初のうちは、どんどん残り距離が減っていくのですが、終盤になると、次の100メートルが遠く感じられるようになってくるんですよね・・・。
まだ時間に余裕もあるし、のんびりと歩いていると、何やら大きな石版を発見。
この岩村町(現在は恵那市岩村町)の歴史に残る10人の偉人達らしいです。
・加藤景廉・・・鎌倉時代、源頼朝の家臣として岩村に荘園を与えられ、初代地頭となる。
・希庵玄密・・・臨済宗二大高僧の一人。
・女城主
・橋本祐三郎・・・江戸時代、庶民の救済にあたった愛民の代官。
・林述斎・・・江戸時代の儒学者。昌平坂学問所(現在の東京大学)の大学頭としても活躍。
・佐藤一斎
・浅見与一右衛門・・・幕末~大正の庄屋・政治家。岩村町に初めての鉄道を引くなど、町の発展に貢献。
・下田歌子
・三好学
・大島健一・・・幕末~昭和の軍人・政治家。陸軍大臣、貴族院議員などを歴任。
このうち、佐藤一斎、下田歌子、三好学の三氏は、登城する道の途中に銅像が建っていました。
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まず最初に、歴史資料館(藩主屋敷跡)の近くに建っていた佐藤一斎の像。
同じく「岩村十傑」に数えられている林述斎の弟子で、有名な儒学者だったそうです。
師・述斎の跡を継いで昌平坂学問所の総長となり、多くの有名な門下生を輩出しました。
その門下生の中には、佐久間象山や渡辺崋山など、歴史の教科書に載っているような人もいます。
また、多くの名言も残していて、岩村の町のあちらこちらに、彼の残した言葉の書かれた看板が飾られていました。
ちなみに、この銅像の題字を書いたのは・・・
この銅像が建った当時の内閣総理大臣、小泉純一郎氏。
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続いて、登城口から歩き始めると数分で見えてくるのが、下田歌子が生まれた場所を示す石碑。
「岩村十傑」の中で、私が唯一名前を知っていた下田歌子は、大正・昭和の教育家でした。
幕末、岩村藩士の家に生まれた歌子。
教養のあった父や祖父の影響で、子供の頃から俳句や漢詩を詠み、神童ぶりを発揮します。
しかし、女である歌子は藩校(知新館)に入学する事を許されなかった為、父の書斎を使って独学を続けました。
その勉強場所になった書斎も残されていました。
そして、この勉学所の傍らには、銅像も。
明治時代になり、上京した歌子は宮中の女官となり、その和歌の才能を評価されて「歌子」の名を皇后から賜ります。
その後、創設された華族女学校の教授になった歌子は、欧米の教育事情を視察。
そこで得た知識・経験から女性の地位向上・教育の必要性を唱え、「実践女学院(現在の実践女子学園)」を創設して初代校長となります。
明治~大正時代を代表する女性教育家といえる人物ですね。
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下田歌子の勉学所を立ち去って、また数分歩くと、今度は三好学の銅像が。
幕末の岩村藩士の家に生まれた三好学は、東京帝国大学(現在の東京大学)やドイツ留学で植物学を学び、理学博士となりました。
日本で初めて「景観」という言葉を使い、自然保護・景観保護の観点から「天然記念物の保存」を提言した人物です。
また、桜や菖蒲に関する研究の権威でもありました。
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という事で、「岩村城 その3」まで書いても、まだ肝心の城跡に向けての山登りは始まっていない訳ですが・・・(笑)。
次回「その4」から、いよいよ山登りの開始です。
(岩村城 その4に続く)