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(茨城への旅(2)から続く)



「勿来の関公園」の入口門の脇にある騎馬像。







この武将は、源“八幡太郎”義家
平安時代、奥州(現在の東北地方)で繰り広げられた2つの戦い、「前九年の役」、「後三年の役」での活躍が広く知られている武将です。


彼の子孫には鎌倉幕府を開いた源頼朝や弟の義経、室町幕府を開いた足利尊氏などがいて、更に江戸幕府を開いた徳川家康も源氏の末裔を名乗ったので、それらの祖先である義家は「源氏の祖」として祀り上げられています。


また、この勿来の関を有名にした「吹く風を なこその関と~」の歌を詠んだ人物でもあります。


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平安時代後期、
清和天皇の血筋を引く清和源氏の流れの一つ、河内源氏の家に生まれた義家。
七歳の時、京都の石清水八幡宮で元服した事から、「八幡太郎義家」と称されるようになります。




西暦1051年。
義家が十八歳の時、陸奥守に任じられた父・源頼義と共に、奥州(現在の東北地方)に赴任。


その頃の奥州は、安倍氏と清原氏という二大豪族によって半独立的に支配されていました。
その安倍氏が朝廷に反抗の意思を見せ始めた為、朝廷の命令を受けた当時の陸奥守が安倍氏討伐に向かいますが、両軍の戦いは安倍氏の圧勝に終わり、陸奥守は残念ながら返り討ちにあってしまいます。


敗戦の責任を取って更迭になった陸奥守の後任に選ばれたのが、武勇の名高い源頼義でした。
1051年、奥州へと赴任した頼義は、息子・義家と共に、前任者から引き継いだ安倍氏討伐の準備を進めます。
ここから始まる「源頼義・義家vs安倍氏」が、後の世で「前九年の役」と呼ばれる戦いになります。


ちなみに、その当時の陸奥国府・鎮守府が置かれていたのが、以前訪れた事のある多賀城
奥州統治の中心地であり、軍事的にも重要な拠点でした。




翌1052年、天皇の祖母の病気回復祈願の為に大赦が行われ、一度は反逆の罪を許された安倍氏。
しかし、頼義の陸奥守としての任期が切れる1056年、ちょっとしたイザコザから再び朝廷と安倍氏が対立。
陸奥守に再任された源頼義・義家親子は、改めて、安倍氏討伐の兵を挙げます。


1057年、黄海(現在の岩手県一関市)で朝廷軍と安倍氏が激突しました。
ところが、その対戦時期が、よりによって真冬の11月。
寒い中で遠征してきた為に疲れ果て、しかも食料も尽きかけていた朝廷軍は、あえなく惨敗。
生き残ったのは、源頼義と義家を含む、たった七騎だけというボロ負けでした。


敗走中に敵軍200騎に取り囲まれ、絶体絶命のピンチを迎えますが、ここで義家が抜群の弓の腕前を見せて退路を切り開き、何とか多賀城まで逃げ帰る事ができました。



その後、どんどん南へと勢力を伸ばしていこうとする安倍氏。
それに対抗する為、源頼義は、奥州を支配するもう一つの勢力である清原氏を頼る事にしました。
それまで完全中立の立場を続けていた清原氏でしたが、頼義による必死の交渉に応え、ようやく参戦を決意します。


1062年。
源頼義・義家親子の率いる朝廷軍は、清原氏の援軍を受け、再び安倍氏の軍と激突。
今度は優勢を保ち続け、安倍氏を本拠地である廚川柵(現在の岩手県盛岡市)まで追い詰めていきます。
そして、やっと安倍氏を滅亡させ、「前九年の役」の平定に成功します。


この「前九年の役」に関しては、義家も活躍はしたものの、どちらかといえば、父親の頼義の戦、という印象が強いですね。


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勿来の関跡に有名な歌碑が立っている義家ですが、この戦いの中でも、有名な歌を残しています。


衣川(現在の岩手県奥州市)での戦いに敗れ、逃げ延びようとする安倍氏の総帥、安倍貞任に向けて、追撃の将である義家が呼びかけました。


「衣のたては ほころびにけり」
(衣の縦糸が綻んでしまったな!)
すなわち、
(衣川の館は打ち破られてしまったな!)


すると、逃げる足を止めた安倍貞任は振り返り、下の句を返しました。


「年を経し 糸の乱れの苦しさに」
(年月を経た糸の傷みがひどいからね)
すなわち、
(何度も意図(作戦)の失敗が続いたからね)


その返句の素晴らしさに心を動かされた義家は追撃を止め、安倍貞任を逃がしてあげました。


何とも、風流というか、優雅というか、呑気な話というか……
戦う男たちにしか分からない、独特の美学の世界ですね。


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「前九年の役」平定の戦功を評価された源義家は、朝廷から出羽守の役職を与えられます。
しかし、その出羽は、共に戦ってくれた清原氏の本拠地。
清原氏に遠慮した義家は、奥州の支配権を清原氏に譲ると、陸奥守の任期が切れた父・頼義と共に京都へと戻っていきました。


一方、朝廷から鎮守府将軍に任じられた清原氏は、奥州の実質的な覇者となります。


それから約20年後。
清原氏の内部分裂による「後三年の役」が起きると、源義家は再び奥州の地を踏むこととなります。



(騎馬像巡り 源義家(勿来駅) に続く)






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