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~茨城の旅(1)から続く~
2014年7月4日(金) 11:00
上野駅から常磐線「スーパーひたち」に乗って、約2時間。
辿り着いたのは、
「勿来」と書いて「なこそ」。
「茨城の旅」のはずが、ここは福島県のいわき市です。
うっかり寝過ごして、思いっきり茨城県を通過してしまった……訳ではなくて、当初から、ここが最初の目的地と決めていました。
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かつて、この地には関所があったと言われています。
当時の東北地方に在住し、朝廷と敵対していた蝦夷(えみし)が南下してくるのを防ぐ目的で、奈良時代あたりに設置されたといわれる関所は、次の平安時代の頃には「なこその関」と呼ばれるようになりました。
「なこそ」を古語で翻訳すると、
「な」=汝
「こ」=来る
「そ」=~しないで下さい。
すなわち、「お前ら、ここから先には来るんじゃねぇぞ!」という意味ですね。
ちなみに、現在使われている漢字の「勿」も、漢文で否定を意味するので、「勿来」=「来ないで下さい」になります。
そんな「勿来」に……来てしまいました(笑)。
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かつて関があったといわれている跡地にある「勿来の関公園」までは、勿来駅から徒歩で20分、タクシーで10分程度。
雨が降っていた事もあって、行き道はタクシーで向かいましたが、徒歩でも楽々行ける距離だと思います。
立派な門、石碑、銅像の三点セットが、「勿来の関跡」の入口。
この門、石碑など、現在残っているものは全て、現代になって公園が整備された時に作られたものばかり。
「なこその関」が設けられたと伝わる奈良時代から残っているモノは、何一つありません。
というか、実は、ここに「なこその関」があったという確かな証拠はありません。
江戸時代になってから、昔の資料や伝聞などを参考にして、「多分、この辺りにあったんじゃねぇの?」という感じで定められたみたいですね。
また、上で書いた「なこそ=来るな」という解釈も、実は違うんじゃなかろうか、という説もあるようです。
宮城県にも「なこそ」という地名があり、近年になってからは「こっちが本当の『なこその関』じゃないの?」という説もあるそうです。
更に、そもそも「なこその関なんて本当にあったのか?」という事すら確かではありません。
要するに、奈良時代とか平安時代の事なので、ほとんど資料も残されておらず、何一つとして「真実」は分かっていない、というのが本当のところなんですね。
まあ、古代の史跡なんてものは、ほとんど、そういう曖昧なもんです(笑)。
有名な邪馬台国だって、未だに本当の場所は確定していない訳ですし。
現代に伝わっている古代の情報なんて、地元に伝わる伝説だとか、後世に加えられた様々な創作なんかが色々と混ぜ込まれたものが多いですからね。
はるばる福島県まで旅してきた私としては、ここに「なこその関」があったと信じるしかありません。
そういう「信じる気持ち」を持っていないと、史跡巡りなんて続けられません(笑)。
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門を潜り、中に入ると、すぐ近くに立っているのが、二つの小さな「お宮」。
ちょうど関東と東北の境目にあったという事で、守り神として「奥州の宮」「関東の宮」という二つの宮が設けられています。
そんな二つの宮の真ん中には、一つの大きい石碑が。
この石碑が示すように、ここに「なこその関」があった……と信じましょう。
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門の前から伸びる石畳の道は、小高い丘の頂上にある「文学歴史館」まで続いています。
この道は「詩歌の古道」と名付けられており、その両側には和歌の刻まれた歌碑が数多く建っています。
「なこその関」は、平安時代から和歌の歌枕として使われており、古代から現代にかけて、数々の有名な歌人が和歌や俳句に詠んできました。
歌枕になっている事を考えると、本当に関所があったかどうかは別にして、「なこその関」と呼ばれる何かは確実に存在していたんだろうなぁ、と思います。
そんな歌人達の詠んだ歌を、いくつかピックアップして御紹介。
まずは、
東路は なこその関も あるものを いかでか春を 越えて来つらん
(春は東から来るらしいけど、東路には勿来の関があるのに、どうやって越えて来るんだろうか)
平安時代の歌人で琴の名手だった源師賢の歌です。
現代に生きる私の感覚だと、春というのは、桜の開花状況のように南西から徐々に東上してくるものだと思うのですが、昔の人は東北の方から来るものだと思っていたんでしょうかね?
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続いて、平安時代の女性歌人の歌を2首。
なこそとは 誰かは云ひし いはねとも 心にすうる 関とこそみれ
(来ないで下さい、なんて誰が言ったの? 誰も言っていないわよ。貴方が勿来の関のような心の壁を作って、私と会ってくれないだけ)
和泉式部
みるめ刈る 海女の往来の 湊路に 勿来の関を われすえなくに
(みるめ(海藻)を刈る海人が行き交う湊路に、勿来の関なんて、私は据えていないわよ)
すなわち、
(「なこそ=来ないで」なんて言っていないのに、最近「見る目=会う機会」が無いじゃない)
小野小町
平安時代の女性歌人といえば、もう恋愛の歌ばかりですよね。
「なこそ=来ないで」を上手く使った歌です。
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続いて、平安時代の家人で、小野小町と共に「三十六歌仙」の一人に数えられている源信明の歌。
名こそ世に なこその関は 生きかふと 人もとがめず 名のみなりけり
(名前は「なこそ=来るな」という関だけれど、往来していく人を咎めたりはしない。名前だけなんだね)
「何言ってんだ、この人は」と思ってしまいそうな歌ですが(笑)、京都の方に住んでいた人々にとっては東北の関の情報なんて乏しかった時代だけに、もしかしたら本気で「通行人を拒む関所がある」と思っていたのかもしれませんね。
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石畳の坂道を登り切り、丘の頂上に到着。
その広場にあったのが、
風流の はしめやおくの 田植うた
(旅に出て最初に感じた風情は、奥州の田植え歌でした)
詠み人は、「はせを」こと松尾芭蕉。
有名な『奥の細道』の中で読まれた一句です。
直接、勿来には関係ないようですが、ここから奥州が始まる境目という事で、この歌が選ばれたのかもしれません。
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最後を飾るのは、この勿来を詠んだ詩歌の中で、最も有名な歌。
吹く風を なこその関と おもへども 道もせに散る やま桜かな
(花を散らすような風は、「なこそ=来るな」の関には来ないものだと思っていたけれど、道を塞ぐくらいに山桜が散っていくよ)
平安時代の武将、源義家の歌です。
彼の子孫には源頼朝や義経、足利尊氏などがおり、「源氏の祖」とされている人物。
東北で戦乱が起きた「後三年の役」に介入した際、この勿来の関を訪れ、この歌を読んだと言われています。
この歌によって「なこその関」は有名な場所となり、江戸時代には多くの桜が植樹されて、全国的に名の知れた観光地となりました。
一度は桜が減って衰退した時期もありましたが、義家の子孫達による桜の植樹が再び行われ、現在も桜の名所となっています。
その植樹記念碑は、祖先である義家の歌碑の横に据えられています。
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広場を抜けた先にあるのが、「勿来関文学歴史館」。
時間の都合で、外観だけを見ただけで、実際に中に入る事は出来ませんでした。
館内では、これまで見てきた歌碑以外の作者が「勿来の関」を題材にして詠んだ、多くの詩歌が紹介されているそうです。
有名な紀貫之や藤原氏、西行などの歌も紹介されているそうなので、和歌に御興味のある方は是非、ご来館を。
~騎馬像巡り 源義家(勿来関)に続く~