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前編から続く






駿府城東御門の中を見学しました。


駿府城とその城下町の歴史などが分かる展示スペースとなっています。
 

 

 

 

 




入口で靴を脱ぎ、中に入った私を出迎えてくれたのは、

 

 

 


 

 

 




この駿府城と城下町の発展の礎を築いた、徳川家康公です。
他の場所に飾られている絵や石像などは若い頃から壮年期のものが多いのに対し、この像は隠居後の老年期のものですね。


後ろに飾られている「厭離穢土欣求浄土」は家康公の旗印として有名で、要約すると「穢れた現世を嫌になって離れたいと願い、幸せな極楽浄土に行くことを喜んで求める」という感じの宗教的な意味合いを持っています。


要するに、戦国時代の血で血を洗い、裏切りや下克上などが続いた混乱の時代を憂い、早く平和な時代になるように願う、という家康の気持ちを表していたのでしょう。


実際、江戸幕府を開き、全国を統制した事で、大きな争いは無くなったのですから、ある程度は「平穏で安定した時代」という理想は叶ったのかもしれません。
もちろん、時代劇のドラマなどを見ればわかるように、身分の格差があったり、年貢に苦しむ農民がいたり、民衆の行動にも制限があったりして、完全なる「自由と平等」には程遠かったのも事実ですけどね。


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家康公は、その人生で三つの時期を、駿府(駿河)で過ごしています。


最初は、今川氏に人質として預けられていた幼年~少年期。


二度目は、武田氏滅亡後の駿府を支配した壮年期。


そして、最後は江戸幕府の将軍職を退いた後、隠居の場として過ごした老年期。


「大御所(隠居した前将軍)」として駿府に移ってきた家康は、駿府城の改築と、その城下町の整備に取り掛かります。
全国の大名に人員と資金、技術などを供出させた「天下普請」によって大改築が行われ、勇壮な天守閣を中心とした城郭が建設されました。

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 




1607年、一度は完成した駿府城ですが、その年の年末に火事で主要な建物が焼失してしまいます。


翌年、すぐに焼失した建物の再建工事が始まり、天守閣や本丸御殿などが改めて建て直されました。

 

 

 


 

 

 




駿府城を中心とした駿府の城下町は、江戸時代になってから整備された最初の城下町だと言われています。

 

 

 

 

 


大小の道が通り、しっかりと区画整理されている城下町が、それまでの時代の町と大きく違うのは、「士農工商」の制度に従い、それぞれの身分の人間の住居が住み分けられている事。
 




武士の住む区域、商人や職人といった町人の住む区域、そして田畑のある農民の区域と、しっかり分かれているのが分かります。


その他、現在でも使われている地名の「~丁目」が使われるようになったり、生活用水路が整備されているなど、全国の城下町のモデルとなりました。



また、大きな発展と繁栄を見せた駿府では、多くの工芸品、特産物が生まれました。
 

 

 



 

 

 

 

そして、江戸と並び、政治・経済の中心地となった駿府では、色々な「日本初」や「日本一」の出来事が行われたといいます。

・西洋との外交
オランダやスペイン、イギリス、タイ、メキシコといった国の使節と交流し、それぞれの国王と外交文書を交わしたそうです。


・日本で初めての英語通訳
 多くの外国人が家康に使え、外国との交流に役立ったそうです。


・日本で初めての活版印刷
 銅製の活字の鋳造に成功して、駿府城三の丸で印刷が始まったそうです。


・日本で初めての打ち上げ花火
 駿府城内で打ち上げられたのが日本最初の花火で、次に打ち上げられたのが江戸の両国。


・日本で最初のゼンマイ式時計
 スペイン製の時計を家康が所有していたそうです。


・日本最初の「火消し」
 ロンドンの消防隊より早く結成されたそうです。


・全国流通の小判
 「駿河小判」が、日本全国で流通した通貨の先駆けだそうです。


・お茶の生産量は、江戸時代から日本一


戦国時代から万病の薬として武将に大切にされ続けた「お茶」は、武士や文化人の間で流行した「茶道」の発展に合わせ、高い価値を持つものとなっていきました。


そして、江戸時代初期には、お茶は身分が高い武士だけが飲むものになり、庶民の口には入らない特別な飲み物となっていました。


そんな「特別な飲み物だったお茶」を物語るのが、この風習。

 

 

 


 


京都の宇治で収穫されたお茶を、江戸の将軍家まで運ぶ「お茶壷道中」


いわゆる「将軍家お用達」のお茶っ葉が入った茶壷を、こんな立派な御輿に乗せて、はるばる長い距離を運んでいたんですね。

 

 

 




この「お茶壷道中」は強い権威を持っているもので、ほとんどの人間よりも優先される存在でした。


 

これを運んでいる行列に出会ったら、どんなに身分の高い大名であっても道を譲らなくてはならず、馬に乗っていたら下馬して見送らなければなりませんでした。

 

 

武士でさえ「頭が高い」存在ですから、農民などの一般庶民にとっては、もっと大変で厄介なものでした。


 

行列が通る時期になると、「お茶壺」の通る街道は綺麗に掃除しておかなければならなかったし、街道周辺の田畑は全て農作業が中止。
行列が通り過ぎるまで、ほとんどの農民達は自分の家に閉じこもっている事しか出来なかったようです。


 

万が一、街道で行列に出会ってしまったら大変。
直視する事なんて許されないので、行列の全てが通過するまで土下座し続けなければなりません。



こんな仰々しい行列に対して、当然、庶民は不満を持っていたようで、それを風刺した歌詞が、童謡「ずいずいずっころばし」の中にあります。


「茶壺に追われて 戸ぴっしゃん 抜けたらどんどこしょ」


茶壺が来たら、家の戸をビシャンと閉じて閉じこもり、通り過ぎてから一息つく、という意味ですね。





家康公が駿府城で隠居生活を過ごしていた頃には、駿河の井川大日峠という所に、お茶の蔵が建てられていたそうです。
宇治や駿府で収穫された新茶を一度お茶蔵に保管し、しっかり熟成させてから、駿府城の家康公に届けるのが年中行事になっていました。

 

ちなみに、この「お茶壺道中」は、幕府から指定された御茶屋が仕切っていたのですが、その中には、現在も有名な「山本山」や「永谷園」も入っていました。
両社とも、現在はお茶というよりも、海苔とかお茶漬けのイメージですけどね(笑)。

 

 

駿府城 後編に続く


 
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