苦労した母の急病に際し、母の苦労話を最初で最後かもしれない投稿。

長いので無視して下さい。

続けるかは未定。というより母の容体次第。

 

母の苦労は生まれた時からだった。 

先天的な身体障害があり(祖父が市役所に届け出たが、74年前、

当時の風潮で「手足が動くからダメ」だと言われ、公的には健常者)、

親兄弟(唯一、中立でいてくれた兄は1人(6人兄弟)いたようです)から

世間に隠され、外で会っても無視、家の手伝いの道具にされ、

働くようになれば金を稼ぐ道具(ボーナスぐらい少し自分で使いたいと言うと

祖母に給料袋を投げ捨てられたそうです)にされ、

最終的には共に交通事故にあった祖父を母自身も後遺症に苦しむ中で

高次脳機能障害の介護を余儀なくされ、亡くなるまで4年

(亡くなった年(1990年)に私が生まれました)、

更に祖父の事故の2年後に脳出血で植物状態になった祖母の介護を11年、

2年2人重複してるので、13年、家で(1番上の兄に「お前がみたらいい」と

言われ、ホームヘルパーなどにも来てもらうことを「他人を家に入れたくない」と

禁止され)365日、1日2時間しか寝る時間もなく、看取りきり、

私が9歳の時に祖母が亡くなり、介護から開放されたと思った途端、すぐに

1番上の兄に実家を追い出され(子供=私がいることが気に入らなかったらしい)、

介護の途中からしていた内職を私と母の2人が食べていけるぐらい頑張り、

私を育て上げてくれた事・・・

 

あと、母が「未婚の母」を選んだのは、

自身が両親(上記の私の祖父母)の介護を抱え、

私の父にあたる人と結婚の話が出た時、

相手の方(私の父にあたる人)も一人息子で、高齢のお母様がおられ、

自分の介護まで背負わせてはだめだと、自ら身を引いた。

母からは「いつでも会いに行けばいい」と幼少の頃より連絡先を渡されていたが、

私には母がいるので会いに行きたいと思ったことはない。

話がそれました。

 

その後、実家を追い出されて23年後、追い出した実家の一番上の兄が亡くなり、

母はようやく実家に戻れたが、既に新型コロナウイルス流行の影響で

マスクが強制になる中、先天的疾患の後遺症でマスクができず、

外出不可になっており、息子(私)の稼ぎも充分ではなく、

実家の地代(借地料)を払うのが年々難しくなっていた。

3年程が過ぎた今年、更なる苦労が母を襲う。

 

今年、9月11日から突然せん妄(数日前から前兆あり)になり、

その3日後には私が追い詰めてしまった( 自宅でせん妄になった母を

理解してあげられずパニックになっていた私が「元にもどって。」や

「元のお母さん帰ってきて。」などと言い、挙げ句の果てに

「一緒に死んで」と発言した)結果、母のせん妄が急速に悪化し、

緊急搬送の上にT市のS病院に医療保護入院、

その4日後には大腸潰瘍の疑い(後に検査結果は痔)で

緊急搬送の上にO市K区のI病院に転院、

すぐにS病院に戻る予定がシルバーウィークに入り事務手続き上、

連休明けを待つ事となり、

その間に転院から3日後に昼食で看護師が食べさせてたお粥を誤嚥し窒息、

14分間もの心停止から蘇生し、ICUに入室。

「レアケース」とも言われた回復を見せ、快方に至りかけるも10日後、

誤嚥・窒息・心停止した時と全く同じ一般病棟・病室に移った翌日未明、

呼吸停止寸前まで容態悪化。再度ICUに入室。

生死の境を彷徨い、他に手は無いと言われ、

5日後、気管切開。

声と自由、せん妄を治す手立て、自宅に帰る希望、全てを無くす。

経過観察、及び抜糸の為、引き続きICU入室。

8日後、再々度、一般病棟・病室に移される。
場所は誤嚥・窒息・心停止、及び急変した時と

全く同じ。

 

母との面会はいつもインターホンから始まる。

♪~「はい、○○(例えば、ICU)です。」

私「すみません。○○(母のフルネーム)の、面会です。」

ここから始まる。

例え15分や30分でも。

例え、せん妄で私の事がわからなくとも。

 

今日も、母に会える。

「お母さん、ただいま。」

『明日、13時40分、母の気管切開が決まりました。

永久に声と自由を奪われる代わりに、命だけは助かるかもしれない唯一の方法です。

母は以前、「管だらけで生きるぐらいなら、死んだほうがまし」と言っていました。

母なら、死を選んだかもしれません。

それぐらいの選択を、私の「生きていてほしい」という、わがままで押しつけます。

母には嫌われるかもしれませんが、私は全て背負うつもりです。

無論、簡単な処置といえど、術中に命を落とす可能性もあります。

それでも、気管切開しないと、どのみち肺炎の繰り返しに耐えられなくなり、

命は無いそうです。

今、今日・明日ではなく、共に生きる未来を考え、望みを託しました。 

 

怒るかな、お母さん。少し低くて、優しい声、好きだったな。

電話で男性と間違われたの、ちょっとだけ気にしてたの気づいてたよ。

○○(私の名前)って、もう呼んでもらえないんだね。

誰よりも優しい人になってほしくて、太平洋のように大きな心を持ってほしくて、

この名前つけてくれたんだよね。

子供の時、ちょっとかっこ悪いかななんて思ってたけど、

今は心から気に入ってるよ。

ありがとう。』

『10月7日・水曜日、朝が来ましたね。

 もう少ししたら、早めに向かいます。

母の声と自由を奪いに、共に戦い、生きるために。

 

お母さん、ごめんね。

お母さん、よく言ってくれたよね。

「離れてても、お母さんはいつもそばにいるから。」って。

俺も、いつだってお母さんのそばにいるよ。

今、いきます。』