竹田さんよりはやかったね!
2022/07/15の記事の再投稿(加筆)です。
長州の由緒ある武器とは、
「難波大助の死霊——許嫁の処女を奪う云々」
の難波大助の許嫁が、昭和天皇の皇后となった久邇宮良子女王だったとされています。
虎ノ門事件(1923/12/27)皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)を
暗殺しようと
日本の共産主義者の難波大助が
ステッキ仕込み式の散弾銃で狙撃
暗殺未遂事件・
伊藤博文の出身地は現在の山口県光市。伊藤博文は若い日、難波家の下で足軽として働いていた。らしいです。難波の家は由緒ある名家だったのです。
難波大助が後の昭和天皇狙撃に使ったステッキ銃は、もとを正せば伊藤博文の持ち物であった。なぜ伊藤の私物のステッキ銃が難波大助の手にわたったかといえば、もとよりこの連中はみんな親戚だからである。
みんな親戚?
・・・ 総理大臣を務めた後に韓国総統府の初第統監になったとき、実家の親戚にあたる林文太郎を部下に置いた。この時に伊藤は、かつてロンドンで入手した護身用の ステッキ銃を文太郎に譲っている。そしてこの林文太郎が親戚の難波家を訪れた際に、大助の父親である難波作之進にステッキ銃を譲り渡した。かくして、伊藤 の持ち物であったステッキ銃が難波家に渡ることになった。
・・・もちろん大助はこの銃の来歴を知っており、それは伊藤公の遺品ゆえに父親の自慢の品であった。だからこそ大助は、摂政宮(後の昭和天皇)の狙撃において、この
「長州の由緒ある武器」
を使った
ちなみに、
山口8区・・難波大助の父親の選挙地盤を引き継いだのが、三国同盟の松岡洋右、松岡が巣鴨プリズンで獄死、そっくりそのまま地盤を受け継いだのが、安倍晋三の祖父である岸信介、更に、佐藤栄作もここから出馬しています。
首相の山本権兵衛は恐懼(きょうく)戦慄し、同日中に全閣僚の辞表をまとめて提出。裕仁皇太子から辞職におよばずと慰留されたものの、間もなく総辞職した。
ほかに警視総監と警視庁警務部長が懲戒免職
父、難波作之進は、餓死
父、作之進は、(4男・大助の)遺体の引き取りを拒み、自邸の門に青竹を打ちすべての戸を針金でくくって、三畳間に閉じこもり食を断ったという。
その後、約半年後に餓死した。61歳没。
選挙の地盤はのちに松岡洋右が引き継いだ。
※山口県民・総ザンゲ!
犯人の通った(地元山口県の)小学校校長と担当教諭も辞職、
郷里の山口県知事は減俸、
犯人が上京途中に立ち寄っただけという京都府の知事も譴責(けんせき)になった。
※難波家のこと
1899年(明治32年)、山口県熊毛郡周防村立野宮河内(現・山口県光市立野宮河内)の名家に生まれた。 難波家は長州藩士ではなく陪臣であり、長州藩寄組清水氏の家臣で、清水宗治の弟難波宗忠(家老)を家祖とし、戦国時代から主従関係は変わることはなかっ
た。
生家跡(山口県光市立野)
難波家は、(戦国武将)備中清水氏の後裔であり、のちに毛利より所領をたまわる、といった、地元では有名な名家であった。
難波家に代々伝わる家系図では難波一族は藤原鎌足を太祖としており、藤原北家の流れを汲んで〇〇⇒〇〇⇒難波と姓を変えながら長い年月を掛け今日に至るようです。
長州ファイブ 山尾庸三と難波家・藤村家のこと
山尾庸三子爵家 大臣
生家跡・秋穂長浜
・山尾庸三 従二位勲一等子爵
天保8、旧長州藩士・山尾忠治郎の三男
工部卿、宮中顧問官、法制局長官
兄に藤村吉九郎、弟に山尾市太郎、山尾常治、松尾寅三、山尾福三あり
参照・藤村吉九郎
1.山尾氏の成り立ち
藤原氏の支族が宇都宮周辺に移住したのを端緒とする。その後、郷の名をとって八田氏または宍戸氏と名乗り、山尾郷に居住した宍戸氏の一族が山尾宍戸氏を名乗り、今の茨城県笠間市付近にあった山尾城を拠点としていたが、南北朝時代に北畠顕家に従って南下し、摂津にて室町幕府軍と戦い、敗北して良成親王とともに九州で南朝方として活動し、後大友氏に依った。その間三代が戦死し、後裔が大内義長に従い大内氏再興を旗印に毛利軍と戦ったが敗れて再び九州に落ち、豊前、唐津などに移動し、その後子孫は帰農して山口の宇部宇津木に居住し、さらに毛利氏の三白政策を受けて山口の秋穂長浜に移住して製塩業、農業に従事した。
長州の撫育政策👆
「幕末の長州藩、山尾庸三と長州ファイブ」より
{山尾庸三傳(1)}山尾正雄氏による論文の一部
山尾庸三は、後期社会主義活動に関心を持つ。
山尾庸三死去の際、
難波大助・18歳
難波作之進の4男・・難波大助
2022/07/15の記事の再投稿(加筆)です。
長州の由緒ある武器とは、
「難波大助の死霊——許嫁の処女を奪う云々」
の難波大助の許嫁が、昭和天皇の皇后となった久邇宮良子女王だったとされています。
虎ノ門事件(1923/12/27)皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)を
暗殺しようと
日本の共産主義者の難波大助が
ステッキ仕込み式の散弾銃で狙撃
暗殺未遂事件・
伊藤博文の出身地は現在の山口県光市。伊藤博文は若い日、難波家の下で足軽として働いていた。らしいです。難波の家は由緒ある名家だったのです。
難波大助が後の昭和天皇狙撃に使ったステッキ銃は、もとを正せば伊藤博文の持ち物であった。なぜ伊藤の私物のステッキ銃が難波大助の手にわたったかといえば、もとよりこの連中はみんな親戚だからである。
みんな親戚?
・・・ 総理大臣を務めた後に韓国総統府の初第統監になったとき、実家の親戚にあたる林文太郎を部下に置いた。この時に伊藤は、かつてロンドンで入手した護身用の ステッキ銃を文太郎に譲っている。そしてこの林文太郎が親戚の難波家を訪れた際に、大助の父親である難波作之進にステッキ銃を譲り渡した。かくして、伊藤 の持ち物であったステッキ銃が難波家に渡ることになった。
・・・もちろん大助はこの銃の来歴を知っており、それは伊藤公の遺品ゆえに父親の自慢の品であった。だからこそ大助は、摂政宮(後の昭和天皇)の狙撃において、この
「長州の由緒ある武器」
を使った
ちなみに、
山口8区・・難波大助の父親の選挙地盤を引き継いだのが、三国同盟の松岡洋右、松岡が巣鴨プリズンで獄死、そっくりそのまま地盤を受け継いだのが、安倍晋三の祖父である岸信介、更に、佐藤栄作もここから出馬しています。
首相の山本権兵衛は恐懼(きょうく)戦慄し、同日中に全閣僚の辞表をまとめて提出。裕仁皇太子から辞職におよばずと慰留されたものの、間もなく総辞職した。
ほかに警視総監と警視庁警務部長が懲戒免職
父、難波作之進は、餓死
父、作之進は、(4男・大助の)遺体の引き取りを拒み、自邸の門に青竹を打ちすべての戸を針金でくくって、三畳間に閉じこもり食を断ったという。
その後、約半年後に餓死した。61歳没。
選挙の地盤はのちに松岡洋右が引き継いだ。
※山口県民・総ザンゲ!
犯人の通った(地元山口県の)小学校校長と担当教諭も辞職、
郷里の山口県知事は減俸、
犯人が上京途中に立ち寄っただけという京都府の知事も譴責(けんせき)になった。
※難波家のこと
1899年(明治32年)、山口県熊毛郡周防村立野宮河内(現・山口県光市立野宮河内)の名家に生まれた。 難波家は長州藩士ではなく陪臣であり、長州藩寄組清水氏の家臣で、清水宗治の弟難波宗忠(家老)を家祖とし、戦国時代から主従関係は変わることはなかっ
た。
生家跡(山口県光市立野)
難波家は、(戦国武将)備中清水氏の後裔であり、のちに毛利より所領をたまわる、といった、地元では有名な名家であった。
難波家に代々伝わる家系図では難波一族は藤原鎌足を太祖としており、藤原北家の流れを汲んで〇〇⇒〇〇⇒難波と姓を変えながら長い年月を掛け今日に至るようです。
長州ファイブ 山尾庸三と難波家・藤村家のこと
山尾庸三子爵家 大臣
生家跡・秋穂長浜
・山尾庸三 従二位勲一等子爵
天保8、旧長州藩士・山尾忠治郎の三男
工部卿、宮中顧問官、法制局長官
兄に藤村吉九郎、弟に山尾市太郎、山尾常治、松尾寅三、山尾福三あり
参照・藤村吉九郎
1.山尾氏の成り立ち
藤原氏の支族が宇都宮周辺に移住したのを端緒とする。その後、郷の名をとって八田氏または宍戸氏と名乗り、山尾郷に居住した宍戸氏の一族が山尾宍戸氏を名乗り、今の茨城県笠間市付近にあった山尾城を拠点としていたが、南北朝時代に北畠顕家に従って南下し、摂津にて室町幕府軍と戦い、敗北して良成親王とともに九州で南朝方として活動し、後大友氏に依った。その間三代が戦死し、後裔が大内義長に従い大内氏再興を旗印に毛利軍と戦ったが敗れて再び九州に落ち、豊前、唐津などに移動し、その後子孫は帰農して山口の宇部宇津木に居住し、さらに毛利氏の三白政策を受けて山口の秋穂長浜に移住して製塩業、農業に従事した。
長州の撫育政策👆
「幕末の長州藩、山尾庸三と長州ファイブ」より
{山尾庸三傳(1)}山尾正雄氏による論文の一部
山尾庸三は、後期社会主義活動に関心を持つ。
山尾庸三死去の際、
難波大助・18歳
難波作之進の4男・・難波大助