昭和12年春場所7日目、九州山は新入幕の名寄岩に対し、
のろのろ仕切って焦らし、怒り狂った名寄が突いて出るところ、
〈素早くしゃがみ込み、渡し込みか足取りを警戒した名寄が上からのしかからんとする所を
右手で名寄の右足を褄取りの様に払いながらその場からすり抜ければ、名寄目標を失って
前に這う〉…以上の手順による、当時の力士社会(笠置山以外)が認識する、文句無しの“猫だまし”
を決めて勝った九州山ですが、その翌日の旭川戦も興味深い決まり手で勝っています。

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「相撲」昭和十二年三月號
〈昭和十二年春場所大觀竝全勝負表〉

【政局不安もよそに(八日目雜觀) 】高雄辰馬
土俵上を見ると、九州と旭の熱戦が展開されている。
兩力士とも足が物を云ふだけに、十二分に土俵上を荒れ廻り、
水入後も勝敗決せず、遂に二番後取直しとなって、九州大渡しで勝ったが、
この一番こそ全館を熱狂のルツボに投げ込むに充分であった。

~~~~~~~引用箇所↑~~~~~~~

“大渡し”というのは渡し込みの一種です。

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秀の山勝一(元関脇笠置山)「楽雅記四十八手」昭和37年

大渡しというのは、自分の手で相手の太股や膝の裏側をとるのは(渡し込みと)同じであるが、
一方の手は大きく相手の胸から肩に、詳しくいうと肘を相手の胸に当て、手首から先が
肩から上に出るようにして、立合い一気に渡し込んだ場合に大渡しということになる。

………………

秀の山勝一「相撲技七十手」昭和32年

立ち合いに飛び込んで腰を落とし、片手で相手のヒザの後ろを取り、
片手は取った足の反対側の胸から肩に真っすぐに当てて、腰を一気に伸ばして
体を掛けると、相手は仰天して倒れる。このように両手を一緒にして立ち合いに
倒すのを“大渡し”といって、渡し込みの一種として別名がつけられていた。
これは戦前に九州山が巧く、出足のにぶい相手にはときおり用いて成功していた。
今では大渡しも渡し込みの中に加えられている。

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九州山は“大渡し”の名手でもありました。
しかし旭川に決めたのは、実はただの大渡しではありませんでした。

~~~~~~~引用箇所↓~~~~~~~

「相撲」昭和十二年三月號
〈昭和十二年春場所大觀竝全勝負表〉

〈八日目勝負〉

九州山(玄—渡掛)旭川 
(木村淸之助)
検査役:藤島、錦島、二子山、山分、井筒

~~~~~~~引用箇所↑~~~~~~~

〈九州山(玄—渡掛)旭川〉
決まり手“渡掛”で九州山の勝ちとの事。
協会の公式発表?では大渡しだった様ですが「相撲」では独自の判断で
“渡掛”という決まり手名を当てました。
渡掛という、耳慣れない決まり手については後ほど。

因みにその前の“玄”は何を意味するのかと申しますと“黒房下”の意味です。
「九州山が旭川を、黒房下で“渡掛”を決めて勝った」という事です。
〈クロブサ〉は黒房でも、玄人の“クロ”の玄房でも、どちらの表記でも正しい様です。

黒房(クロブサ)
(コトバンク)https://kotobank.jp/word/%E9%BB%92%E6%88%BF-487315
「相撲で、土俵上のつり屋根の北西の隅に垂らす黒色の房。冬と玄武神を表す」

高松塚古墳の壁画でもお馴染みの〈玄武〉ですね。

雑誌「相撲」では、
土俵上のどこで勝負がついたかを漢字一文字で表現していました。

正(正面)、向(向正面)、東、西、靑(青龍—青房)、白(白虎—白房)、朱(朱雀—赤房)、
玄(玄武—黒房)、中(土俵中央)

九州山が決めた“渡掛”に話を戻しましょう。
“渡掛”とはどんな技なのか?

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「相撲」昭和十二年三月號
〈昭和十二年春場所戰績批判大座談會〉

藤島:旭川と取直すときでも、四つになったら、苦しめられると思った
ものだから、大渡に行って、乗ったところを中から脚を捲いたね。
大渡の内掛といふんだらう…あんなのを見たことはないね。
錦島:三所攻でもないやうだ。大渡は、はじめのとき二回やりましたね。
二回やって極らないで、四つになっちゃって、褌を取ってから褌を放して
首を極めに行ったのがそもそも間違ひだったのぢゃないですかね。二度目の
取直しのときにはいま親方の言はれたやうに、あまり見たことのない手を取った。

………………

「相撲」昭和十二年五月號
〈昭和十二年春場所戰跡檢討〉

八日目…一月二十二日(金曜日)
【九州山—旭川】
突合ひ、九州突勝って左から、旭の右足を渡込に行ったが、のこって左四つ、
旭下手、右に首を捲き、九は差手を抱へて、左からしきりに前褌をねらったが取れない。
互ひに出投、引落、内無双、蹴返、首投等をさかんに應酬して競合ふうち、九州捲かへて
右に前褌を引き、こんどは旭左からこれを抱へ、同じく右に九の首を抱へて揉合ひ、
甚しく取疲れて水がはいり、同じ體勢を持して、つひに取疲れ、一時引分け、二番後の
取直となった。
二番後、突合ひ、旭の突っかけたとき、九州咄嗟に左から大渡に行き、残るところを
右内掛にかけ倒して鮮かに勝った。渡掛とでもいふか、元来じっくり取らなければ、
力の出ない旭川、すばやく渡されて、挽回の餘地を残さなかった。

~~~~~~~引用箇所↑~~~~~~~

〈大渡し+内掛け〉ですよ。これを雑誌「相撲」では“渡掛”と命名し、
三所攻めと区別しています。

錦島親方(平幕優勝した、あの大蛇山)の発言「三所攻でもないやうだ」
これも2つの点で注目されます。
まず1つは、明治末の玉椿の頃の新聞記事や、明治大正の相撲書には、今では全然三所攻めにならない、
ただの内掛けや外掛けが三所攻めにされている事が多々あるが、錦島親方の発言を聞く限り、
少なくとも当時の親方衆の認識(親方と現役力士の間でも世代間ギャップがあることを
猫だましの研究等で実感しているので、単に“相撲社会”と一括りにするのは躊躇われました)
では、現在と同じ三所攻め、つまり〈片方の足を掛け、もう片方の足を取る技〉が認識されているという事。
もう1つは、今なら九州山の技は文句無しに三所攻めと認定されるのに、どうして錦島親方は
「三所攻でもないやうだ」と言ったのか、という事。錦島の頭には明確に三所攻めの定義があって、
それにそぐわないからこそ「三所攻でもないやうだ」と言ったと思うのですが、それは一体どの部分なのか。
錦島の気持ちは、他の親方そして「相撲」の編集者も共有するものだったからこそ、敢えて三所攻めにはせず
“渡掛”という語を造語?してまで当てたのでしょうから。

頭をつけていない所でしょうか?

………………

因みに“渡掛”という決まり手の名称それ自体は、
「角力秘要抄(寛延)」「相撲隠雲解(寛政5年)」等、
江戸の昔から四十八手でもお馴染みのものです。

「相撲隠雲解(寛政5年)」の四十八手の技名を踏襲する「日本相撲伝」3部作
「日本相撲伝」「相撲四十八手 : 附・裏四十八手」「角力百手」にも“渡り掛”が
入っていますが、ここで解説される渡り掛は〈 内掛け+両手の足取り〉

鎗田徳之助 編「日本相撲伝(明治35年)」

渡り掛

木村庄之助 述「相撲四十八手 : 附・裏四十八手(明治44年)」

渡り掛(此手は俗に云ふ足取りでござります)

武藤郁 著「角力百手(明治44年)

渡り掛(俗稱足取り)

これらは絵も解説も全て同じですね。

一方、同じく渡り掛でも〈内掛け+大股〉になっている書も多い。

樋渡雋次郎 著「日本体育叢書 相撲(大正12年)」
挿絵なし
「右四つなれば右足を以って乙の左足に内掛に行き、
左上手では乙の右上股を内側から抱へ。體を低くして押し倒す技である」

小泉葵南 著「昭和相撲便覧(昭和10年)」

渡り掛

同じく「昭和相撲便覧」に出て来る〈呼掛〉

これこそ正に、九州山がやった〈大渡し+内掛け〉の“渡掛”そのものです。

彦山175手の「わたりかけ」は、また全然違っていて
三所攻めの仲間ではありません。

★わたりかけ
「呼びかけとは逆に、ぐんぐん押すか、寄るかするうち、とっさに
みぞでもわたる気ぐみで外掛けにいってかけ倒すか、土俵外へ出す」