笠置山の言う〈太刀山の仏壇返し〉が
他の人の言っている“仏壇返し”とは全然違う事を以前↓お話しました。
〈楽雅記四十八手〉で笠置山が語る、太刀山の“仏壇返し”の実像。
http://ameblo.jp/feijoahills/entry-12142225222.html
~~~~~~~引用箇所↓~~~~~~~
〈楽雅記四十八手〉第十六話〈呼戻し〉
この手は戦後、若乃花がしばしば用いて脚光を
浴びるようになった。私の知るかぎりでは大正から
昭和にかけて考え出された手であると思う。
大正末から昭和初期にかけての先輩からは、
この手は“ゆり戻し”“寄り戻し”という人もいた。
また、仏壇返しという人もあった。しかし、これは組み方が
少々違っていて、相手の倒れ方がよく似ているだけである。
仏壇返しは太刀山の得意手で、相手が差すと、
その手を抱え込んで、一方の掌を相手の胸に当て、
その手首を抱え込んだ掌で上からつかみ
手元に相手を引いてから後ろか横の方向に振り捨るように
するのである。相手はもんどりうって仰天して倒れる。
差した手は肩からきめるようになるし、
腰も浮くので簡単に倒される。
しかし、これは長身で腕力がなくては用いられない。
………………
〈楽雅記四十八手〉最終回 〈極出し、極倒し〉
鉈は相手の差し手を抱え、
一方の手はのばして相手の胸かのどわに攻めて、
その手を、差し手を抱えた掌で上からつかんでしまう。
そうすれば相手の差し手は抜けなくなってそのまま押して
出るのである。差し手の肘関節は極まってしまう。
これで呼戻し(仏壇返し)もかけられる。
彦山光三著「相撲道精鑑」1934年(昭和9年)大光館書店
鰭崎英朋画〈なた〉
~~~~~~~引用箇所↑~~~~~~~
この“鉈”の体勢から倒すのが
〈太刀山の仏壇返し〉だというのです。
「太刀山の〈仏壇返し〉をこの様に解説する人を、笠置山以外に私は知りません。
笠置山が解説する〈太刀山の仏壇返し〉は、今日まで全く見向きもされないまま来て、
世間一般の定説からは、かけ離れたものとなっています」
とその時書きましたが、笠置山の言う〈仏壇返し〉を、
太刀山と同時代人の証言で見つけました。
~~~~~~~引用箇所↓~~~~~~~
大正12年「日本体育叢書:相撲」樋渡雋次郎(しゅんじろう)著 目黒書店
〈第十章 技〉の内の〈第四節 捻手〉の内の〈第十項 極出〉
極出には片手を極めた片手閂と、兩手を極めた閂との二の場合がある。
閂は既に述べたから此れを省略し、片手閂の場合を説明する。
乙の左差手を深く肘の邊までも右上手に抱へ込み、左手にて、咽喉輪に攻め、
其の前腕の中央部を抱へ込むだ右手で握れば、乙の左手は極められて自由が利かず、
且つ此の為に乙の上體は斜に向けられ、右手の頼となるべき所がない様になる。
かかる體型になった儘、甲は乙體を右斜後に押し進むで土俵外に極め出すのである。
此の構で乙の體を一度自分の方に引きつけ、其の反動を以って急に後様に押す時は、
乙の腰の中心を失って足を前方に上げた儘倒れる。かく倒した時には此れを極倒と云ふ。
佛壇返とは此の極倒が鮮に極ったものである。
この技は多くは背高き力強き者が、技の巧な者に對し防手をなしつつ攻める技である。
~~~~~~~引用箇所↑~~~~~~~
挿絵の乙の左手が、凄い所から生えて来てます(笑)。
喉よりも右側からですよ。
〈片閂〉と〈鉈〉を同一視している点では、
戦前の彦山光三さんの著書「相撲道精鑑(昭和9年)」と同じです。
「相撲道精鑑」では
♢鉈(片閂)
と表記され「日本体育叢書:相撲」では〈片手閂〉とだけ書いてあり
“鉈”の文字は全く出て来ません。
しかし勿論、解説されている技は〈鉈〉そのものです。
笠置山が〈楽雅記四十八手〉で解説している〈鉈〉と同じものです。
笠置山は、当然の事ですが〈片閂〉と〈鉈〉は分けています。
〈片閂〉は手を組みません。閂が片方だけ極っているやつです。
それはそうと…如何でしょう樋渡雋次郎の言う〈仏壇返し〉
彼はリアルタイムで太刀山を見ている訳ですから。
私はむしろ
〈楽雅記四十八手〉の「これは長身で腕力がなくては用いられない」と
〈日本体育叢書:相撲〉の「この技は多くは背高き力強き者が」
他にも似ている表現が多く見られ、
笠置山が〈日本体育叢書:相撲〉の影響をかなり受けている様な気もするんです。
今まで感じた事なかったですが。
そう云えば、笠置山が決まり手を制定する以前に、
“外襷”という名称を、現在の外襷反りに与えていた唯一の相撲書が、
この〈日本体育叢書:相撲〉だったんですよね。
★「内無双」
「乙の右差手を左手にて引張込み、右手は乙の差手の上を
越して左に出し、乙の右太股を内側から抱へ上げる技で、
一名“外襷”とも云ふ」
…残念ながら
「力士社会ではこの技を“猫だまし”と云ふ」
とまでは書いてませんが。
笠置山を研究する時、
樋渡雋次郎の影響は無視出来ないかも知れません。
他の人の言っている“仏壇返し”とは全然違う事を以前↓お話しました。
〈楽雅記四十八手〉で笠置山が語る、太刀山の“仏壇返し”の実像。
http://ameblo.jp/feijoahills/entry-12142225222.html
~~~~~~~引用箇所↓~~~~~~~
〈楽雅記四十八手〉第十六話〈呼戻し〉
この手は戦後、若乃花がしばしば用いて脚光を
浴びるようになった。私の知るかぎりでは大正から
昭和にかけて考え出された手であると思う。
大正末から昭和初期にかけての先輩からは、
この手は“ゆり戻し”“寄り戻し”という人もいた。
また、仏壇返しという人もあった。しかし、これは組み方が
少々違っていて、相手の倒れ方がよく似ているだけである。
仏壇返しは太刀山の得意手で、相手が差すと、
その手を抱え込んで、一方の掌を相手の胸に当て、
その手首を抱え込んだ掌で上からつかみ
手元に相手を引いてから後ろか横の方向に振り捨るように
するのである。相手はもんどりうって仰天して倒れる。
差した手は肩からきめるようになるし、
腰も浮くので簡単に倒される。
しかし、これは長身で腕力がなくては用いられない。
………………
〈楽雅記四十八手〉最終回 〈極出し、極倒し〉
鉈は相手の差し手を抱え、
一方の手はのばして相手の胸かのどわに攻めて、
その手を、差し手を抱えた掌で上からつかんでしまう。
そうすれば相手の差し手は抜けなくなってそのまま押して
出るのである。差し手の肘関節は極まってしまう。
これで呼戻し(仏壇返し)もかけられる。
彦山光三著「相撲道精鑑」1934年(昭和9年)大光館書店
鰭崎英朋画〈なた〉
~~~~~~~引用箇所↑~~~~~~~
この“鉈”の体勢から倒すのが
〈太刀山の仏壇返し〉だというのです。
「太刀山の〈仏壇返し〉をこの様に解説する人を、笠置山以外に私は知りません。
笠置山が解説する〈太刀山の仏壇返し〉は、今日まで全く見向きもされないまま来て、
世間一般の定説からは、かけ離れたものとなっています」
とその時書きましたが、笠置山の言う〈仏壇返し〉を、
太刀山と同時代人の証言で見つけました。
~~~~~~~引用箇所↓~~~~~~~
大正12年「日本体育叢書:相撲」樋渡雋次郎(しゅんじろう)著 目黒書店
〈第十章 技〉の内の〈第四節 捻手〉の内の〈第十項 極出〉
極出には片手を極めた片手閂と、兩手を極めた閂との二の場合がある。
閂は既に述べたから此れを省略し、片手閂の場合を説明する。
乙の左差手を深く肘の邊までも右上手に抱へ込み、左手にて、咽喉輪に攻め、
其の前腕の中央部を抱へ込むだ右手で握れば、乙の左手は極められて自由が利かず、
且つ此の為に乙の上體は斜に向けられ、右手の頼となるべき所がない様になる。
かかる體型になった儘、甲は乙體を右斜後に押し進むで土俵外に極め出すのである。
此の構で乙の體を一度自分の方に引きつけ、其の反動を以って急に後様に押す時は、
乙の腰の中心を失って足を前方に上げた儘倒れる。かく倒した時には此れを極倒と云ふ。
佛壇返とは此の極倒が鮮に極ったものである。
この技は多くは背高き力強き者が、技の巧な者に對し防手をなしつつ攻める技である。
~~~~~~~引用箇所↑~~~~~~~
挿絵の乙の左手が、凄い所から生えて来てます(笑)。
喉よりも右側からですよ。
〈片閂〉と〈鉈〉を同一視している点では、
戦前の彦山光三さんの著書「相撲道精鑑(昭和9年)」と同じです。
「相撲道精鑑」では
♢鉈(片閂)
と表記され「日本体育叢書:相撲」では〈片手閂〉とだけ書いてあり
“鉈”の文字は全く出て来ません。
しかし勿論、解説されている技は〈鉈〉そのものです。
笠置山が〈楽雅記四十八手〉で解説している〈鉈〉と同じものです。
笠置山は、当然の事ですが〈片閂〉と〈鉈〉は分けています。
〈片閂〉は手を組みません。閂が片方だけ極っているやつです。
それはそうと…如何でしょう樋渡雋次郎の言う〈仏壇返し〉
彼はリアルタイムで太刀山を見ている訳ですから。
私はむしろ
〈楽雅記四十八手〉の「これは長身で腕力がなくては用いられない」と
〈日本体育叢書:相撲〉の「この技は多くは背高き力強き者が」
他にも似ている表現が多く見られ、
笠置山が〈日本体育叢書:相撲〉の影響をかなり受けている様な気もするんです。
今まで感じた事なかったですが。
そう云えば、笠置山が決まり手を制定する以前に、
“外襷”という名称を、現在の外襷反りに与えていた唯一の相撲書が、
この〈日本体育叢書:相撲〉だったんですよね。
★「内無双」
「乙の右差手を左手にて引張込み、右手は乙の差手の上を
越して左に出し、乙の右太股を内側から抱へ上げる技で、
一名“外襷”とも云ふ」
…残念ながら
「力士社会ではこの技を“猫だまし”と云ふ」
とまでは書いてませんが。
笠置山を研究する時、
樋渡雋次郎の影響は無視出来ないかも知れません。