
本文はここから
「私、男っぽい」っていう言葉
リアルでは聞いたことがないのです。
思えば、不思議なことです。
女同士の会話で、
いかにもよくありそうな言葉なのに。
「私、男っぽく見えるかもしれないけれど実は…」
そんな言葉なら、なんどか聞いたことがあります。
「実は…」に続く言葉を要約すれば
要約すれば「実は女々しい」、
自分の辛さ、悲しさ、悔しさなどが後に続く
せつない言葉です。
「実は女々しい」
この言葉、そういえば
女性だけじゃなく男性から聞くこともあります。
この場合の「女々しい」は
「強がっているけど実は女々しい」
「弱みを見せないようにしているだけで実は女々しい」
そんな、
ちょっと弱音を吐きたい気分の時
出てきてしまう言葉、
そんな気がいたします。
sayoの周りは「女々しい」男女が多いのか?
類は友を呼ぶという現象なのか?
そう突っ込まれてしまいそうですが(笑)
女性の場合、
「女々しい」は「傷つきやすい」の同意語であるようです。
傷つきやすいけれど、普段はそれを表に出していない。
だから人知れず傷ついているということを察してほしい。
そんな悲しい気持ちを感じさせる言葉なのです。
男性の「女々しい」はどうなのか…
女性と同じような意味合いのなのではないかと思います。
ただ、
女性の場合
「だって、大人だから女々しい様子は見せられない」
男性の場合
「だって、男だから(以下同文)」
という、微妙にして本質的な
ニュアンスの違いがあるような気がしますが。
そんなわけで。
リアルの体験からは
「私、男っぽい」と公言する
女性のタイプ、キャラクター、メンタルなど、
なかなか想像しずらいのですが。
でも。
少し違うニュアンスの、
似て異なるけれど
案外本質は近いような気がする言葉なら
この頃しばしば耳にしているのです。
「もう、おじさんだから」
「もう、じーさんだから」
この言葉を発するのは、男性ではありません。
ご近所の60代後半~70代前半の
ごく普通の女性たちです。
主婦業をそつなくこなし、
ごく普通の装いで井戸端会議をなさる
おばさまたちがら
時折発する言葉です。
言葉の意味は
・「おばさん」というより、「おじさん」である。
・「おじさん」ゆえに、身だしなみには気をつけるが
「ふぁっしょん」には興味がない。
・「おじさん」ゆえに、礼儀にはもとらないようにするが
「おんならしさ」は求めてほしくない
・・・ざっと、そんなところ、ではないかと思います。
換言すれば
「人間として年相応にやらなければならないことはやりますが、
「女」をもとめていただいても困ります」
という、
一種の「女、おりました」宣言というところなのでしょう。
「女、おりました」。
「一般的な感覚」から申し上げるならば、
おそらく、
できるだけ引き延ばしたい、
先送りしたい、
そんな宣言、なのではないでしょうか。
ボーヴォワールに、
「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という、
という言葉があるのだそうです。
その言葉に続けて
「そして、人は女をおりるのだ」
そう、宣言することも可能
ということなのでしょうか?
可能、なのだろうと思います。
「女」としての価値を測られることを拒み
「人」としての価値のみで生きることを宣言する。
そういう姿勢で生きることも、気持ちの上では
できると思うのです。
無論、その背景には、
「若さ」が減少することによって
「女」としての残存価値が減少した、
と、いう自覚がある、
そう、推測することも可能なわけですが。
また、そのように宣言したところで
それを(世間が)
「女らしくない女」「女としての価値が低い女」
と、ジャッジしてしまう
そんな可能性も高いわけなのですが。
一生この宣言をしないで済ます、
そんな、悲痛なまでの意志をもって生きていらっしゃる女性が
「美魔女」なのではないか、
そう思っております。
「女としての価値」の高さにこだわりぬく生き方、
そんな気がいたします。
ここで冒頭の
「私、男っぽい」
に、話を戻します。
この言葉は
「私は女々しくない」
「私は人として強い」
そういう宣言と、受け取ることが可能なような気がいたします。
また、
「私は、私の価値を、
『女』としての価値で測られたくない」
という拒絶として受け取ることも可能なような気がいたします。
後者の場合、
・『女』としての価値は高くない、けれども
『人』としての価値は低くないのだから
そこを評価してほしい。
という要求とも思われますし
・『女』としての価値は無論高いが
その面のみに着目するのはやめて
『人』としての真価を評価してほしい。
という要求とも取れるような気がいたします。
なぜ、そんな要求を、
『女』は(世間に対して)つきつけたくなるのでしょう。
それは、
『人』としての価値と『男』としての価値の乖離より
『人』としての価値と『女』としての価値の乖離の方が
より、
大きいから、
ではないのでしょうか。
人としての価値、それを
例えば
「真・善・美」
と定義づけるとして、
女としての価値がそれと同一である、
そう考えることには若干の無理があるような気がいたします。
(すくなくとも、現代の日本の社会においては。)
たとえば。
美魔女、という存在は
「美」「若」とおそらくはそれを支える「財」
によってその社会的価値の高さを認められる存在、
という気がいたします。
小悪魔、という存在は
「美」という目に見える価値、
そして「色」という、目に見えるような見えないような
ある種の「力」によって、
評価される存在、という気がいたします。
そういった特殊な女性ではない
ごく一般的な女性も
「女」としての価値を測られる場合、
えてして
「美」に傾斜配点したジャッジを
(世間からは)受けがちなのではないでしょうか。
美魔女、といわれる女性や
小悪魔、といわれる女性が
「私、男っぽい」というのならば、
彼女はおそらく
『女』としての価値だけではなく
『人』としての価値を評価してほしい、
そう、求めているのではないかと思います。
あるいは
「私は女々しくない、私は強い」
という主張を行っているのではないか
とも考えられます。
なぜ、
人並み以上の
美しさや魅力を認められている女性が
「私、男っぽい」
そう、言いたくなるのか。
おそらく
『女』としての価値だけでなく
『人』としての価値を認めてほしい、
そういった欲求があるからなのだろうと思うのです。
『女』としての価値と
『人』としての価値、
その両方を評価されなければならない、
というある種の強迫観念のようなものが
女性の心には
止み難く存在し続けるのでは
ないでしょうか。
強迫観念は
『女』としての価値も
『人』としての価値も
測られつつ生きなければならない
アンヴィヴァレントな
社会的存在であるところから生まれるのではないか、
そんな気がします。
この強迫観念を
男性にかんじていただくことは
たぶん非常に困難なのではないかと
思います。
「(女々しい」といわれることで
男性が感じる辛さを
女性が理解することが困難であるのと
同じように。)
最近生まれた「美魔女」という言葉、はもちろん
「小悪魔」の対義語となる
男性を表わす言葉がないことも
女性の社会的存在としての
アンヴィヴァレンスを
表わしているのではないかと思います。
「私、男っぽい」
この言葉には、そんな
アンヴィヴァレントな存在としての
根深く悲しい病理のようなものを感じるのです。