
本文はここから
自分の部屋、というのが実は
心から落ち着く場所、ではないのです。
それは昔、子供だったころから、今も。
理由は少々異なりますが(笑)
子供のころ、
親は、「子供にはプライバシーは必要ない」という考えで
それを明言しておりました。
客観的に見て
小学生の間はそれも仕方がない
と思う部分もあります。
が。
成長に伴い
プライバシーを否定されることが
辛くなるのは
普遍的な現実というものでしょう(笑)
今は昔。
中学校二年のころ、
日記をつけ、引き出しの中に入れておいたら
親に話していないことを
親が知っていた、
そんな、ありがちな経験をいたしました。
けれども、
この顛末を予感していたわたしは
日記には大切なことをを書かないようにしておりました。
ですから別段ダメージは受けなかったのです。
子供の浅知恵のささやかな勝利と申せましょう(笑)
長じて
いい大人になってから、
PCのハッキング、クラッキングを
被った経験がございます。
(無論、親によってではございません(笑)
親に、そんな能力はありませんから)
これは想定外でした。
かなりダメージを受けました。
子供時代の教訓を生かせぬ、
愚かな大人になり下がったことが
敗因となった、と申せましょう(笑)
そんな成育歴あり被害歴ありで(笑)
自分の部屋、というのは
必ずしも落ち着く場所ではありません。
そもそも。
狭い家に5人
犇めきあって暮らしている
豊かならざる家庭です。
自分の部屋、とは申せ、
自分のものだけを置く、
と、いう訳にはいかない、
住宅事情でございます。
話は変わりますが
バブルのころにはそんな家屋、
兎小屋、とECに揶揄されたものでした。
それも
今は昔。
さて。
話を戻せば
そんな豊かならざる家庭の中でも
力もなく、立場もなく、
能力も低い人間でございます。
ですから、
物理的にも心理的にも
落ち着く部屋を持てずとも、
それも致し方ない。
分相応、とい申せましょう。
この情けない為体こそ、
正しく、
役立たずの悲しさ、とでも
申し上げておきましょう(笑)
そんな訳で。
自分の部屋は必ずしも
「落ち着く場所」ではないのです。
が。
だからといって
落ち着く場所がない、
というわけではございません。
やはりそこは家族。
そこはかとない思いやりを持って
遇していただいている、
というわけです。
すなわち。
家人が寝静まった深夜から
午前4時45分までの間。
そして、少し間を開けて。
5時10分から
7時までの間。
その時間、
未明の台所を
独占を、わたしは
許されております。
その時間の台所こそが
わたしにとっての
心落ち着く静かな場所、なのです。
睡眠障害に悩み
静かな環境を求めるわたしにとって
台所を独占することを
許されることは本当にありがたいことです。
この時間帯、田舎の住宅地はとても静かです。
今頃の季節なら聞こえるのは風の音ばかり。
この時間帯、家人も大層静かです。
聞こえてくるのは寝息ばかり。
部屋によっては、鼾も聞こえてまいりますが(笑)
かつて。
この場所、この時間は
可愛がっていた猫と一緒に
過ごす場所、過ごす時間でした。
猫は
未明に鳴き、
台所に入ってくるのです。
猫は

台所で二度寝することもあれば
また出かけていくこともありました。
出かけていってまた帰ってくることも
ありました。
台所ではたいてい、
茹で卵の半分と
納豆の5粒、
少しばかりのヨーグルトなどをシェアしました。
仔猫だった時分から、猫は、
わたしがコーヒーを飲むと、
まってわたしを見つめました。
それは、
「それでは私には牛乳を」
という意味なのです。

わたしがコーヒーを飲むとき
猫は牛乳を飲む、
それは2008年から続いた
猫とわたしの習慣でした。
2010年12月8日まで、
未明の台所はそんな場所だったのです。
ですから。
この時間、
この場所をわたしが独占し、
独りで過ごすことを
許してくれる家族に
わたしは心から感謝しているのです。
静かに一人過ごす場所、
それは「落ち着く場所」であり、
皮肉にも
「家族に感謝する場所」
でもあるのです。
そして。
いつか、体調も精神状態も改善し、
そしてできれば
性格も大なり小なり改善して(笑)
たとえば
家族と団欒する居間、食卓、
などが
「未明の台所」よりも、
一層、
「落ち着く場所」といえる、
そんな日が来るよう、
密かに願う場所でも
あるのです。
そんな日が来ますように。