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NHK「スペシャルドラマ 坂の上の雲」
原作 司馬遼太郎
維新から日露戦争迄の日本とそこに生きた
秋山兄弟、正岡子規らを描いた歴史ドラマ、
と、まとめてしまって良いのでしょうか。
この点から既に自信がありません。
ドラマが難解であった、と言いたいのではありません。
むしろ平明であったというにちかい印象さえ残ります。
決して単純ではない、長大なドラマがそのような
イメージを抱かせうるのはなぜか。
言いかえれば
このドラマの、
額もなく知識もなく歴史に興味もなく
かつ
長編ドラマを見る根気を欠く
わたしのような人間さえも引き付ける魅力は
何であったのか。
一つは、五感に訴える力が強かったということでしょう。
登場人物の風貌、
声、会話、表情、仕草。
人の営みの中から立ち現われてくる部分の
鮮やかさと分かりやすさ、魅力といったものが
ストーリーの概略さえ把握がおぼつかなくとも
結末まで引き付けていく力になった、ということだと思います。
そのわかりやすさ、という魅力は
人間だけではなく
家、通り、町、都市、戦闘が行われている場所など
五感で感じ取るすべての要素にわたっていたのではないかと思います。
キャラクターが魅力的で
かつキャラ立ちが素晴らしく、
背景の描写も優れていた、と簡単に言ってしまっていいのかもしれません。
が、
それだけにとどまらない、
空気感のようなものを放つドラマだったようです。
空気感、というと抽象的にすぎるでしょうか。
やや、乱暴に言いかえることを許されるなら、
明治、という時代の魅力が描かれていた
と
いうことではないかと。
このドラマが伝える明治、という時代の魅力、
一言でいえば
濁りのなさ、
ではないかと思っています。
冒頭のナレーションに象徴される濁りのなさ。
このナレーションにおいて「滑稽」という言葉が
印象的に使われています。
坂の上の雲(理想)を追う、
役割を求め、果たすことを生きる価値と定める。
ある種の楽天的な精神と、
その精神に則って生きることで受ける傷。
ドラマが完結した今、
滑稽、という言葉に
楽天性と傷と為し得たものごと、
という
(予測もできず、避けることもできない)
自己評価ができず
かつ
他者の評価を拒む
何者かの前で、
沈黙し
しかし項垂れはしない
そんな気持ちを喚起されるのです。
このドラマが残した
平明、という印象は
ここで滑稽、という言葉を使う潔さに
由来しているように思えます。
画像 一枚目
2011.12.28 夕月/四日月
05:20:30pm
暮れ方、黒雲、白い月。月齢凡そ3.59。
暮れ方、黒雲、白い月。月齢凡そ3.59。
画像、二枚目
同
06:34:44pm
金色の月。月齢凡そ3.65。
2011.12.30
05:34:22pm 夕月/六日月
夕焼けの名残、金色の月。
夕焼けの名残、金色の月。
月齢凡そ5.60。