ブログネタ:最近いつ泣いた?
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最近泣いたのはPCモニターの前。
「(この猫に)いくらの値段をつけるのさ?」という一文を読んだ時。
客観的に見て別に、泣くようなところではないのですが(笑)
どのような猫にどのような値段を付けるのか。
人それぞれの価値観があることでしょう。
3年ほど、猫を飼っておりました。
迷い込んできた猫。
猫の命は、外猫としてしか飼えずにいるうちに、終わってしまいました。
(この記事の画像は、彼女とは関係のない猫たちです)
平凡な猫でした。
いわゆる日本猫に、洋猫の血が混じってるんだか混じっていないんだか。
錆とも雉とも麦藁ともつかない、
光線の加減によっては鯖蚊とさえ思うような
迷彩柄の猫でした。
客観的に見れば
取り立てて美しいわけでもない。可愛いわけでもない。
恐らく
飛びきり狩りが上手なわけでも
飛びぬけて利口なわけでもなかったのでしょう。
わたしにとっては可愛い、賢い、気立てのよい猫でした。
土にも石にもコンクリートにも馴染み
草陰に忍び隠れるのにも適した毛並みは
狩りにも役立っていたいたことと思います。
がっしりした骨格は
美しい、可愛い、という、印象からは
かけ離れておりしたが、
高く跳び、飛び立つ鳥、舞い降りる鳥を捕獲するのには
有利だったことと思います。
一方、
仔猫の時分から、奇形じみて見えるほどせり出していた腹部の形には
何か遺伝的欠陥をもっているのかという疑いを
禁じえないものがありました。
長く生きていれば、遺伝的な欠陥に苦しんむことになったのかもしれません。
彼女は去年、仔撃つ事故で他界しました。
今となってはもう、考えても詮無いことです。
さて。
1年ほど前、日本猫の保護活動をなさっている方の著作を読みました。
日本猫の美質について述べられた下りなどは思い出しても
胸が熱くなるものがあります。
たとえば
良い、日本猫の牡は、雌猫にご飯の良い部分を十分食べさせてから
自分が食べる、など。
他方、
いわゆる洋猫の遺伝子が交雑し、
結果、
純血種の日本猫にはあり得ないような形質をもつ猫には
日本猫保存活動かとして容赦なく価値判断をおこなっているようでした。
曰く
醜く捻じれた尾(註:鉤尻尾のことをさしています)
お化けのような(註:猫の顔面の模様。シャムとの交雑の結果と推定される
顔面のみ真っ黒な子の仔顔を指しています)
など。
選ぶという行為には捨てる(選ばない)という面があります。
選ぶ価値のない猫と判断された猫には
一顧だにしない、というよりは
むしろ
純潔を守るべき日本猫の血筋を穢しかねない
有害な存在とみなすような
冷徹なまなざしさえ感じられました。
(あくまでも、わたしが、そう感じた、という主観にすぎません。
公平を期すために記しておきます。
著作中、
どんな猫でも命の重さに変わりはない、
と
明言するくだりがありました。)
わたし自身にも、
品種改良と高精度なブリーディングの結果生まれる
猫を、美しい、素晴らしい。
と、
感嘆する気持ちがあります。
日本猫の血統を守ることができるものなら
守ってほしい。
と、
と、
願う気持ちもあります。
冒頭の
「(この猫に)いくらの値段をつけるのさ?」という文で泣いてしまったのは、
その気持ちはいわゆる「雑種」の猫を
価値の低いものと感じる気持ちと
繋がっているのだろう、
という、普段眼をそらしている部分を
突きつけられたように思ったからなのかもしれません。
わたしはブリーダーでも日本猫保護活動家でもありません。
ですから、
仮令、
猫の、
商品としての価値がゼロであっても。
DNAの器としての価値がマイナスであっても。
わたしには関係ないはずなのです。
また、
ブリーダーをなさってる方の中にも
お家で可愛がっていらっしゃるのは公園で出会った
野良猫というかたもいらっしゃいます。
一人の人間の中に
価値観の軸が複数あっても不思議はないのかもしれません。
それでも拘ってしまうのは
猫ばかりではなく人もまた、
社会的な存在としては
同様に
幾つかの価値観によって価値を判断される存在でしかあり得ない。
ということを思うのかもしれません。
ということを思うのかもしれません。
自分は、自分の猫にいくらの値段を付けるのか。
自分は、自分自身にいくらの値段を付けるのか。
そして他者は、社会は
自分にいくらの値段を付けるのか。
「(この猫に)いくらの値段をつけるのさ?」という一文は
その問いをも喚起する力をももっていたようです。





