いろいろ人生につまずいたりして、哲学の本や生き方の本などを読んできました。

 

密教を学んで、理趣経というお経に出合いました。

密教、真言宗のお坊さんは、この理趣経を日々の読経に用いるそうです。

般若心経ではないんですね。

 

理趣経には最後に「百字の偈」という総括部分があります。

漢字にして百文字で本分を要約しています。

 

その百字の偈に

自分の持つ欲望を、もっと広げて

世界中の人のための欲望に変えることができれば

私に大きな富をもたらし

世界が私の自在になり

またその利も固いものとなる

 

とあります。

 

※すみません、私はお坊さんではないので、詳しいことは説明することができないし、説明する権利もありません。間違っている所もあると思います。

 

そして、中村天風さんの本にも、この内容と類似するものがありました。

 

神様、ここでは造物主と言います。

造物主、天にいるお父さんみたいな人は、

 

人の行動が、真・善・美にかなえば、そのものに力を与えるとあります。

 

言葉の理解が難しいのですが、真と美は置いておきまして

この「善」というのは、不偏愛、平等愛です。

すべての人のためになるような行動をしてごらんということです。

 

中村天風さんの哲学は簡単なようで、その本当のところを理解するのがとても難しいのですが、

それでも私には理趣経とこの「善」という考え方は等しいと思いました。

 

それで、ここからは私が考えたことですが、

 

「どうして、人は他人を嫉妬し、また他人の足を引っ張ることをするのか」

また、その様に、神様は人を造られたか?という事です。

 

この世界の目的が、目に見える進化、物質面の進化ならば、

人というものに嫉妬や羨ましく思う心、その負の心はない方が都合がいいと思います。

 

僕には想像することしかできませんが、何かの邪魔が入ってとん挫した研究、開発は多くあっただろうと思います。

 

科学の進歩、物質の進歩が最重要であれば、神様は人に、人の足を引っ張らせるような心を与えないはずです。

 

ではなぜ、このような心を与えたか、

 

それはやはり、

 

みんなで助け合って、一番遅れている人の手をみんなで取ってあげて、みんなで幸せになってほしいと思って、神様は人を造ったのではないか、と思うのです。

 

神様は、単なる科学の進歩も、個人に独占される富も望んでいない。

 

誰も見捨てられることのない幸せ、幸福を望んでいるのではないかと思います。

 

 

最後もまで読んでいただき、ありがとうございました。