例えば電車が走っている。記憶=imageの容器が、クラインの壺みたいなよじれて裏返った平面上でワープしながら繋がる「道筋」を移動する。滑るように。ジャンプするように。実を言うと車輪が動力によって回転しているだけ、接地する一点、微分された世界。そう、回っているのは世界の方、回ってから、四角い筒状の箱(=「電車」)に引っ掛かって破綻してしまわぬよう、破綻を避けるべく、世界は分割される。瞬間毎に世界が無限に生産される、超高速のシャッターが切り取り続けるシーン、つまり微分。細切れにされて大量に生まれた写真を糸で吊って繋げたガーランド、壁に飾って見ている私は、世界を包括する「大きな」私は、しかし同時に電車に乗っている私でもある。入れ子状に電車の窓の中に思考=スクリーンとそこに映った窓、の中に窓、の中に…。
第二の「裏返り」を取り結ぶものは何か。微分する私と、微分された私とを同一のものとして成り立たせる構造。シャッターを切り続ける私と、シャッターに切り取られ続ける私とを一致させる…。電車のメタファーに戻る(正確にはメトニミー)。電車が運ぶもの、そしてその車窓に映すものは何か、それは記憶である。車中で思考されるものは、単純に記憶のimageであったり、それらを接続して組み立てられた「計画」だったりする。窓から外を眺める眼が写すものは、常にデジャヴュであって、それは夢に似ている。初めて見たように思えるあるシーンも、実は自分がこれまで見て来たものをコラージュして作り出された絵画でしかない。画家はその人が知っているものしか描けない。なのに知らないものが描かれる。これは「生産」と呼ばれる現象である。既存の材料が組み合わされて新しいものが作られること。常に生産は起こっていて、それは夢を見ることにも、車窓から外を眺めることにも、微分された細切れの世界の写真を観察することにも、幼い子供が見たことのないものに触れる場面にも共通する。あらゆる経験は生産である。例えば電車は、その生産の一つの場なのである。
映画編集者が電車に乗っている。その人は車窓に映るシーンを繋ぎ合わせ、記憶から記憶へとワープを繰り返し、素材から一つの作品=意味を作り出す。しかしその作品が完結することはあり得ない。生産された一本のフィルムは、途中で枝分かれし、その筋が延びたい方向へ延び、空を飛んだり地中を潜ったりして、錯綜した線が描かれる。地図というよりは路線図――地下鉄の通り道も飛行機の航空路も、原子力潜水艦が潜航する秘密の海図も一緒くたに描かれた――であり、毛細血管というよりは皮膚と消化器官とその隙間を充たす体液の関係に近い。どこでも裏返り、どちら側も表であり裏でもあるような表面、冒頭で「クラインの壺」と喩えられたある表面。大地と空と海とimageとが全て地続きの一枚の表面上に描かれ、自由に接続している。夢の中で起こるワープや、気づかれない速度で為される登場人物の置換を思い出せばわかり易いだろう。時間的にも空間的にも微分された世界は、めちゃくちゃにコラージュされる。
シーンへと切り刻んだものはシャッターではなく、車輪だった。車輪は動力によって回転するが、回っているのは世界だった。世界がぐるぐる振り回されて、各々飛び散って行って自由に繋がっている。そうして描かれた線の上を、電車が走っている。いつの間にか四角い筒状の容器は、その下から支えていた車輪から離脱している。記憶の乗り物は、終わりのないフィルムの上を走らされる。飛行機であり潜水艦であり、私達とは違ったレーダーを備えたモグラでもあり、地図も経験の蓄積をも持たずに歩き散らす迷子の子供でもある、ただ自由な乗り物。車輪なり水かきなりが、世界を掻き分けて進んで行く。運動に伴う時間の進行は世界をバラバラに切り刻む。乗り込んだら、車窓から映画を観て、路線図を引っ張って、でたらめな動きをして、いま自分がどこを走っているのか現在地を失ってテレポーテーションを手に入れる。分厚い雲が覆っている、それもスクリーン。手すりから身を乗り出すと、あまりに広くて間に何もなくてどこへも行けない気分になる。手持ちのカードは少な過ぎて、これを継ぎ接ぎしたところで一体どこへ行けるっていうんだ。酩酊だけが移動を可能にするのか。足りない、回転が足りない、微分が足りない、もっと細かく、時間の圧縮は後からついて来る、筋道を立てたければもっと細かく、まだ気づいていない迂回路や補助線が、移行のための通過成分が、表面に上って来るまで、表面が沈み込んで行くまで、筒状の容器を細かく震わせる、世界を痙攣させる必要がある、反復が開始する。繰り返し電車に乗っている。繰り返し電車は走っている。その都度一回切りの線が引かれ続ける。