「笑い」自論―試論(未完成) | OG:LIFE

OG:LIFE

アニメと写真のおはなし

●1月末ごろまでの提出期限なのですが、今の自分だと完全に「ギリギリまでやらず、ギリギリになっても確実に苦労する」のが目に見えているのでネタは決めて有るのでちょっとずつ書いて修正します。悪い反応が起きそうなところは削除してあります。blogのほうに出しておくと、いやでも目にはいって自分で加筆修正していけると思うのでまだ指定文字数以下ということで未完成ですが駆り段階として。。





 喜劇的な笑いの中に「自嘲的な笑い」というものがある。その笑いの性質をもつものの代表格は道化師である。道化師は化粧をし、派手で滑稽な動きをして皆を「笑い」に誘う。自分は、この「自嘲的な笑い」、自分で自分を嗤うという自虐的な要素が、現代人につながると感じている。

 では、実生活の中でこの「自虐性」は一体何の役に立つのか。それは「自衛」ではないだろうか。

 日本人は悲劇好き、というイメージが自分にはあるのだが、講義で何度も取り上げられていた「距離」の話でいえば、悲劇における悲劇の渦中の人物と観客との距離は近い。相手の身になり、相手の気持ちを思うからこそ、相手に同情し、涙が出る。この「同情」する対象が完全に自分になる時が「自嘲」である。大正・昭和時代の哲学者、阿部次郎の遺した名言に「自嘲は強者のことである。自己憐憫は弱者のことである。」という言葉がある。この言葉は、自分の至らなさ、不甲斐なさを憐れむか、嘲るかでその人の価値が出るということである。自嘲は自己を客観視する、距離を離してみなければならないからである。

 現代社会では、隠すよりも自己を晒してしまった方が楽なのかもしれない。先に自分で体勢を整えれば、それ以上傷つかずに済むとも考えられる。自分を嘲笑う事で自己を肯定しているとも言える。他者よりも先に自分が自分を打つことでそれ以上の攻撃を防いでしまうのである。

 日本語には「謙譲語」というものが存在する。これは「自分を謙って」相手を敬う表現である。このような表現も自虐的、自嘲的な気質が日本人に元来備わっている証拠となり得はしないだろうか。「謙る」とは自分を卑下する、という事でもあるからだ。だから、日本人はすぐ「ごめんなさい」「すみません」と言うのである。「すみません」は挨拶として使用される程、日本人にとっては当たり前に使われる言葉である。謙譲語に限らず、日本語は「遠まわしな表現」が多いことにもつながってくる。無意識に使っている「あなた」という言葉ですら、相手を直接示した言葉ではない。「あなた」という文字を辞書で引くと出てくる「彼方」という文字。これは遠方を示す言葉である。「あなた」とは相手を示す婉曲表現の単語であった訳だ。日本人は意志をはっきりと言わない、と言われる事があるが、それは言語的に直接表現が少ないためと、そういった言語・文化が育つ気風があったためだ。日本では相手を気遣い、自分を謙り、相手を敬うことが美徳とされてきた。その価値観は古典の歌からも伺い知ることが出来る。婉曲表現は奥行きが増し、よりドラマチックに心に響くと日本人ならば感じられるのである。例えば、「拾遺和歌集」中納言朝忠(藤原朝忠)の歌に

逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし

という歌がある。これは恋の歌なのだが、歌の中に直接「恋」とは入っていないが、男女が逢うことがなければ・・といった逆説的な内容から恋に深く悩み苦しんでいる様子が伺える。物語の奥を読む力は、四季折々の情緒を愉しみ自然に親しんできた日本人ならではの感受性だからこそ成し得る業といえよう。

話題が途中でとび気味なのでなんとか途中のつなぎにもう一つくらいネタ入れたいんですけどね!新聞とかの文芸評論の類にそんな感じのなかったかなぁ・・・。現代小説とかなにか読んでみたらコレ!みたいな本ありそうっちゃーありそうですよね・・・現代小説は私小説的な感じのもの多いように感じているので・・・