○東京グローブ座に敬愛する某S先生の授業の一環としてこどものためのシェイクスピア『リチャード3世』を観劇してまいりました。初体験の新大久保駅(そこからか!)、東京グローブ座、そして初生でみるこどものためのシェイクスピア!『ハムレット』はビデオで二回見せていただいたんですが、やっぱり生に勝るものはありません☆★というわけでもうこんなに日がたってしまってびっくりアセアセ・・!記憶を掘り起こしながら頑張っていってみよー!
◇『リチャード3世』子どものためのシェイクスピアカンパニー
作:ウィリアム・シェイクスピア
翻訳:小田島雄志
脚本・演出・主演:山崎清介
出演:伊沢磨紀・福井貴一・佐藤誓・間宮啓行・彩乃木崇之・戸谷晶弘・明樂哲典・大内めぐみ・若松力
2006年7月15日 14:00開演
東京グローブ座 2階B列22番(ほぼセンターvv下手寄り)
12時くらいには劇場についていたのでそこから1時間劇場まえで「腹へったー」「あつい~」とうだうだと開場待ち。ようやく開いたのでロビーで昼食をむさぼり食う!コンビニでかってくればいいのに買ってこなくて結局中で高いお茶(ペット)を買う。でも暑かったのでのんどかなきゃまずいと思った(笑)中にはいってしばらくしてから、突然ピカっと外が光った・・?と思ったらバケツをひっくり返したような雨(古典的表現だけどまさにそんな感じ!)がド バー!!と降って来てビビる。早く来てよかったー!!雨の最中に来たズブ濡れ状態の人達を見て早くきた甲斐があった・・とちょっと幸せを感じた(ひどい)早く来た組み5人なのでした。
リチャード3世は悲劇である。悲劇ということは人が沢山死ぬ。子どもを前にしての「死」(あるいはその前の「殺」)をどう表現するのか。子どものためのシェイクスピアシリーズでは恐らく「死」は鈴の音で統一されている。しかし、戦闘のシーン、戦いの最中人を殺める場面の表現はストレートなものもそうでないものも織り交ぜて表現されている。今作以外の例では『ハムレット』しか観ていないが、『ハムレット』ではホッケーの姿がアリスのトウィードルディーとトウィードルダムのような風貌で滑稽さを出している場面もあった。今回は初めの方でアンの夫であったエドワードが文字通り「串刺し」になるシーンがあった。観劇前の時点で、「教育」の立場的にどうなのか、ということが挙げられたが、今回『リチャード3世』における「死」の表現は舞台上で見られる人物の死は殺される者はほぼストレートな表現であったように思う。「子ども」を意識するときに、何故か子どもを養育する、保護する立場にある大人は残酷さを心配する。
ではここで、「マザーグース」を思い出してもらいたい。どうだろうか。「マザーグース」は子ども達の伝承童謡である。歌の中には隠喩で当時のスキャンダルを歌ったものもあるが、直接「死」が描かれているものも少なくない。「誰がこまどり殺したの?」「リジー・ボーデン」「ねずの木のうた(母さんが僕を殺した)」「だらしのない男」など良く知られているものでも残酷な唄は多い。また、童話や昔話においても淡々とした描写で見逃してしまうのだが、「灰かぶり」や「ヘンゼルとグレーテル」では魔女や継母が悲惨な死に方をしている。
童話の残酷性と子ども、という点から色々と見ているうちに興味深い文章を見つけた。それはある母親の文章だったのだが、そこで目に留まったのは「人が鬼になる」という表現である。グリム童話などには、「継母」や「魔女」として書かれているもの中には当初「実母」であったといわれているものも多くある。当時貧しい暮らしをしていた人々が実際に口減らしで子を捨てるということも少なからずあったことであるし、「白雪姫」などは嫉妬心で「鬼と化す」姿が継母の形でこそあってもはっきりと描かれている。
作られた世界が完璧に「きれい」なものであると、拒絶反応を示したくはならないだろうか。「娯楽」全体にいえることでもあるのだが、「読み物」の文化には人間の心の奥底にある願望の反映を見ることができる。「娯楽」として楽しまれれるものには残虐なものも数多くあったし、演劇での「悲劇」は観客にとって最高の「ご馳走」である。日本人は悲劇好き、というが、これは日本人に限った話ではないと思われる。人は「他者の不幸」が大好きなのである。
こどもが破壊行動や暴力行動に魅力を感じるのは人間の心の奥底にはそういった残酷性が潜んでいることを明確に示している。そして、こどももおとなも「娯楽」で「やりたい、でもやってはならない」(タブー)への欲求不満を役者を代理実行人として観ることで解消しているのである。
実際に、観劇した公演で子どもが「怖い」と泣いたのは、殺される場面などではなく、公爵夫人役の佐藤誓の女装した姿であった。体格の良い、いかにも男性的な体つきをした女性、というミスマッチさは古典的な魔女らしい風貌で登場し拡声器で呪いの言葉を吐くマーガレットに劣らぬインパクトであった。
「死」以外におけるシリアスな場面ではフランクな言葉遣いをしたり、ドジを踏んでみたり、短気に怒って暴れだしたり、真剣に話している前で手遊びや腕相撲をして遊びだしたり、などそのシチュエーションにおいて「やってはならない」ことをして笑いをとる場面が多く見られた。リチャードがエリザベスの娘を妻にしたいから説得しろという場面での「バカも休み休み言いなさい!」と言われてリチャードが実際に寝転げるシーンは実際なら殴られるくらいの覚悟が必要であり、ここでもやはり「蚊帳の外」だからこその楽しさをついていると思われる。
今回パンフレットに掲載された対談でもあげられていたように、人形の扱いが今回新しい形でされていたことがいい意味で予想を裏切られた点であった。シリーズで必ず登場する人形は、今まで役者の内面、独白の部分を担当する主役の影としての役割を担ってきたのだと思われるが、今回は左手は実際に舞台上でリチャード3世の身体的特徴として機能した。人形という「人の形」という点から左腕に意思を持たせるという斬新なアイディアで、子どものためのシェイクスピアにおけるリチャード3世は「精神分裂病」のような内向的な面を覗かせる人物となった。それは、劇中に「ニート」の言葉がでてきたことからも、現代の若者の姿を重ねた人物像であるといっていいかもしれない。
物語の終盤、戦いの前日にリッチモンドの夢枕にリチャード3世によって惨殺された死者達が来て「生きて栄えよ!」と繰り返すシーンでは思わず涙がこぼれてしまった。「絶望して死ね!」「生きて栄えよ!」二つとも強い言葉だが、「生きろ」という言葉がより強く心に響き強い力を感じた。
S先生から「開演前に「イエローヘルメッツ」っていうのが出てくるから見れるならそれも絶対見たほうがいい」と言われていたので早めに2階席に行く。円形劇場なので心配はしてませんでしたが、なにせ私、今眼鏡がないので裸眼でぼんやり姿を追うだけではイヤだなぁ・・と劇場で何か見る際には必ずもって行くオペラグラスを装備。2階B列なので結構近かったです。世田谷パブリックシアターとほぼ同じ感覚かな?でもこちらのほうが傾斜がゆるいかもです(パブリックシアター結構傾斜激しい・・と思う)。ドキドキ待っている間にちょびっと原作からこうなる!予想を隣席のIちゃんと話して時間潰してました。イエローヘルメッツは大内めぐみさんVo.で曲は「愛のロケット」。プレンチポップな可愛らしい曲調が耳に残ったので調べましたとも誰の歌か。そしたら原田知世 さんでした。原田知世さん・・・名前聞いたことあるけど歌歌ってたんですか!女優さんだと思ってました・・。歌手もやってるんですね~。『時をかける少女』つうのがありましてね、これ最近劇場アニメ化されたものなんですがそれの前身の映画版で、それの主演が原田さんという・・他アニメ映画にも多数出演しておいでだそうで知らなかったー!!でもなんか選曲でも隠れ子どもつながりみたいな感じをつかれた気がしてマニアック臭を感じました(勘違い?)因みに劇場アニメ版は奥華子が主題歌歌ってるんですよねー妹の大学のOGだったりして。訳わからない話の脱線ぷりですいません。
久しぶりに感想文なるものをまたもや「取り急ぎ」捏造作戦勢いで書きましたが、BLOGで普段から「書き癖」をつけておいて一番良かったなぁと思う瞬間はこういうものを「すぐ書こう」とする気持ちや姿勢でしょうかね^^今回すぐかけなかったので多少印象が薄れてしまってネタにしようと思ってたことのいくつかを忘れてしまったかもしれませんが、あまり複数の話題について触れるつもりはもともとなかったので見る前からちょっと気に留めていたマザーグースとか残酷性、描写についてメインに書かせてもらいました。
これを書いている途中で大学から思わぬ知らせが入ったので思考回路が停止するかと思いました。いいことだったんですが超大事件です。明日死んでも文句言えない・・。ありがたいですが信じられないです。