酒とタバコが20歳ならオタクは30歳になってから。
オタクが堂々とオタクとして生活していくためには、自立して「オタクでない」人と対等にやりあえる基盤を固めておくことが大切だと記事の終わりに書いてあります。ヒットしたものにはとことん突っ込んでいける探究心や集中力、情報収集力を持っていると思うんですよ。だからオタク文化「のみ」ではなくて、オタク文化が「+α」であればそれは昔よく言われた雑学王と同じようなものだと思います。色々知っている一つのものを見てもそれが20倍にも30倍にも面白いかもしれないじゃないですか。学生やっている間にそういう人間になれたらレポート書くのがすんごい楽しいんだろうけど、私は全然勉強不足なのでいつも苦労の連続です。でも自分が知っている一見バラバラな情報が、レポート書くときに思わぬ形で集約されていくのは非常に楽しいです。
「オタク」が一般のニュースや番組で特集が組まれるくらい普通に「オタク」ネタにアプローチできるようになったら、オタク当人はどこへ行くのでしょうか。オタクの単語の裏にはオタクの文化というものが含まれていると思います。これはオタク全体にいえるかどうかは分かりませんが、多分その中の一部には「オタク」が一般的に白い目で見られている点を踏まえつつ自分が特殊であるという認識を持っているように思えます。信者的なファンのように、ファンでない人、中途半端な人を軽蔑する意識がどこかにあるように感じます。今テレビで秋葉原をメインにオタク文化についての特番が組まれていますが、そういうものを見て、"聖域を汚された"ような気分を感じる人も多少なりともいると思うんですね。「萌え」という単語がオタク<限定>の特殊な単語であったところから、「萌え」が一般的にも使われるようになって、「萌え」という単語が「萌え」に表現される感情を表すのに適さなくなっている、あるいはその単語を使う価値が低くなっていると思っていると知人から聞いたこともあります。
非常に他人事っぽく書きましたが、自分はオタクは好きさゆえに研究熱心で物知りだと思っているので私なんかは中途半端すぎて、中学時代に先生からオタクだって言われたことあるけどオタクなところまでは到達できていない気がするので自分ごととして言っていいのか悪いのか迷っているんです正直。ただ、すごいマニアックなことを沢山知っている人間はとても魅力的なので好きだし、そういう人がオタクだとしたら私はすごい尊敬したいし、何でも極めることは凄いことなんだと思います。私は作ることも考えることも書くことも全部中途半端でそんな自分がいつもいやです。大学で色々やっていると考えて書くことが楽しいしそれがメインのことだから、こういうことをもっと掘り下げてやっていけたら自分もちゃんとした人間になれる!気がする(笑)