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●野田秀樹の戯曲『半神』を鑑賞。でもさっぱり意味が分からない。原作自体は知っているから、原作の内容については分かっていますが。

 まず、最初から、舞台の稽古風景をそのまま公開しているような「芝居」と「現実」の境界があやふやな導入部分から始まり、そこからいつのまにか「芝居」の時空に引き込まれる。突然語りだす意味不明な数字と言葉の羅列。作中、何度も繰り返されるフレーズは印象的だが謎めいていて、意味は分からない。解き明かしてはならない禁断の謎、それが「自己を問う」ことなのか?

 物語の後半で、語り役の家庭教師もまた、不思議な時間空間の過去の人物(あるいはボケた低血圧の数学者と高血圧な医者という未来の2種類の家庭教師自身)であり、一つの人物の思考が、神の数式による理解を追及する低血圧の数学者と、現実の医学による解明を選んだ高血圧の医者に「分裂」したということか。マンガではこの家庭教師という人物も、作中に幾たびも登場する謎の「白き怪物たち」も存在しておらず、主体として描かれるのは結合双生児の姉、ユージーである。これに対し、芝居では導入部分は舞台に立つ「役者」、そして、進行を進めるのは双子の下にやってきた家庭教師であるようにも思える。

 台詞が多く、テンポが速い。これは「聞かせる」ためではなくて、言葉の羅列によって観客にも「混乱」を起こさせようとしていると私は解釈しました。しかし、聞き取れるか取れないかの猛スピード語られる台詞の中の繰り返されるいくつかの言葉は、繰り返されるごとに確実に頭にインプットされている。繰り返される言葉の中で、「螺旋」というものがある。これは螺旋という永続的なリズムの表現と、それこそ螺旋状の「遺伝子」、人そのものの表現と捉えて間違っていない・・はず。

 理解はできていないが、「白き怪物たち」が自らの正体を語るシーンがある。これらは「世界の6つの果て」であり、人々の様々な欲や感情が様々な姿で現れているのだという。ここは面白かった(「世界の果て」というと禁断性・危険性という点でも共通しているのは『少女革命ウテナ 』(さいとうちほ、ビーパパス)における「世界の果て」だろう)。

 愛を与えられた経験のないシュラ(ユージー)には家庭教師の語る「恋をしたり」「愛したり」することは理解できない。むしろ理解したくないともいえる。理解すれば、マリアには与えられ、自分には与えられていないものの認識を強めてしまうからだ。だから白々しいまでに知らない態度を取るのだろう。

 小道具で使われるトランプのハートのエース。カードが一枚しかないように、一つの心臓を取り合うマリアとシュラ。ここは上手いと思った。そして、家具やドアなどはほとんど使わず、空間と時間の分割を照明でやりきっているところも凄い。

 マンガと芝居とで違っていたのは、両親が助かったほうが「マリア」であるという認識をしているところだろう。これは『生徒諸君! 』(庄治陽子)で北城真理子(マール)の死から逃避した母親が、北城尚子(ナッキー)を意識化で殺し、ナッキーをマールだと言ったシーンにも見られる。「二つに一つ」という選択肢は定番の展開らしいが、野田秀樹という奇才にとって定番こそが最もアレンジしやすいらしい。



アニプレックス劇団夢の遊眠社「半神」
萩尾 望都 『半神
萩尾 望都, 野田 秀樹『戯曲 半神
⇒戯曲を見る人は一度目を通すと良いでしょう
庄司 陽子『生徒諸君! (1)