好きな言葉の一つは、 下剋上である。


いつかみていろ


倒れずに


這いつくばって


今を変えて見せる。



しかし、思うに、


これは、誰かの上に立つことが、達成ではなく、


自分が、自分に、勝つ事 なのである。


底辺には もっと底辺があるが、


自分なりのどんぞこ から


のしあげることなのだと思う。



だから、とくに、出世したいとかは思わない。


だれかと競い合っても仕方がないのかもしれない。


自分が、これでいい、と思う様にならなければ、


意味がない。


失敗して、


だらけて、


最悪になって、


それでも、


暗闇に☆が、あって、


つかもうとすること。



ここ二年くらいで、無口の人の時間が増えた。


何が来ても、


キレたりしないで、


ただ、無口に


していた。


仁義なき戦いの 昌三を思い浮かべて


自分よ、こらえてつかい!


と思って 過ごした。


ストレスフルになり、体調が悪くなったりもしたが、


キレたりする自分より 


こらえていることのできるようになった 自分が


前よりマシに


なった気がする。


まあ、 場面によるけど。

人が、「決意」することは。

その人自身で、決め、行わなければ、実現しない。


いくら、こうしたらいい、ああしたらいい、といっても、


その人が「決意」しなければ、何も変わることはない。


それだけは、本人だけができること。



「決意」することで、失敗もあるとおもうのだが、

それでも「決意」したからには、本人自身が貫くものなのだ。



しかしながら、世の中には、

自分では、どうしても、事情があり「決意」という判断をもてない人々もいる。

それは、怠慢なのではなくて、

その様に、生まれてきてからずっと、一生そうなのである。


改善をしてあげたくても、

改善という、思いつきも、できない人もいるのである。


その様な人々を眼の前にすると、

なんともどうしてやったらいいものやら、


今の本人が悪いわけでもないのに、


この「社会」に生きているばかりに、

苦しんでいる様を


どうしたらいいのか?と考えるのである。


「決意」できることはすばらしいことである。

「決意」したこともすばらしい。