フラクタルな日々 長崎 人気 美容室 -35ページ目

最後の一カ月

良い話かと思ったので。もちろん創作かもしれませんが、害があるというわけでもないので・・・。



その日、僕が家に帰ると妻がちょうど夕食を準備しおえたところだった。


僕は大きく息を吸い込んでから静かにこう言った。

「話が、あるんだ」


彼女はゆったりと椅子に腰をかけながら耳をすませ、食事を始めた。僕の言葉を待っているのだ。

そして僕は知っていた。彼女は僕が何を言いだすのか、もうわかっているのだ。


あれだけ心の準備が出来ていたはずなのに一瞬、僕は何も言えなくなってしまった。

でも言わなくちゃいけない。


「離婚、したいんだ」


静かにそう言い終えたときでも、彼女のよどみない食事の動作には変化がなかった。

いつもどおりの夕食、いつもどおりの彼女の食べ方だ。


ただ彼女は僕にひとつ質問をした。



「なぜなの?」



僕は彼女のその質問にすぐに答えることができなかった。


一瞬にして空気が変わったのに気づいたのは、彼女が投げつけた箸が壁にあたった直後だった。


彼女は泣き叫び、僕は沈黙し、夕食は僕の妻に対する気持ちと同じように冷めてしまった。


もう僕らは話をしていなかった。彼女のすすり泣く声だけが、その場に存在していた。

妻は僕たちに何が起きたのかを正確に知りたがった。


でも僕はそれに対して満足のいく回答を与えることができなかった。


ふたりの会話は堂々巡りをはじめていた。


でも物事はいつだってシンプルだ。僕は妻ではない別の女性、ジェーンを愛してしまったのだ。


深い罪悪感にかられて僕は離婚協議書を書き始めた。


家、車、僕の会社の30%を妻に与える、そう書きつづった紙切れが、


紙切れでいられる時間はそう長くはなかった。


妻の手にそれがわたった瞬間に破り捨てられてしまったからだ。



床に散乱した紙片を見ながら、10年連れ添ったこの女性はいったい誰なんだろう、という気になった。


そこには僕の知らない、誰かがいた。どこか遠くからの意識で彼女をみつめながら、


僕は誰だかわからないその女性に対してすまないと思った。


僕のせいで時間を無駄に過ごさせてしまったからだ。


だけど僕の気持ちは変わらない。ジェーンをどうしようもなく愛してしまったのだ。


それだけが僕にとって、今一番、確かなものだった。


僕が本気だ、とわかってしまった妻にできることは、もう泣き叫ぶことしかなかった。


そして彼女が取り乱す姿をみて、「あぁ、これが見たかったのだ」と僕は感じはじめていた。


離婚。それは一人が泣き叫び、もう一人が冷静にそれを見つめるものだ。


離婚の実感。僕にはそれが必要だったのだ。


次の日、僕が夜遅く帰宅すると妻が机でなにか書き物をしていた。


しかしもう僕には興味はなかった。すぐにベッドルームに進み、服を脱いで


ベッドのなかにもぐりこんだ。今日一日、ジェーンと過ごした楽しい思い出が


すぐに僕を心地良い眠りへと誘った。


妻との状況はひどいけれど、僕はとてつもなく幸せだった。


「条件があるわ」


朝起きると彼女はこう切り出した。離婚に際して私はあなたから何もいらない。


でも1ヶ月だけ待って。その1ヶ月のあいだは今までどおり普通に過ごすこと。いい?


1ヶ月の理由はシンプルだった。息子の試験が1ヶ月後に迫っていたからだ。


私たちのごたごたで息子の試験に悪影響を与えたくないのよ、彼女はそう言った。


わかった、と僕は彼女の条件をのむことにした。


彼女が言っていることはきわめてリーズナブルだし、その理由は実に正当だ。


僕も息子を愛しているのだ。


「ただ、もうひとつだけ条件があるの」


神妙な面持ちで彼女が付け加えたもう一つの条件はいささか奇妙に思えたが、


結局、僕はそれを受け入れることにした。


これから1ヶ月間、朝出かけるときに私を抱き上げてドアのところまで運んで欲しいの、


ちょうど私たちが結婚した日にあなたがそうしてくれたように。私が望むのはそれだけ。いいかしら。


たった1ヶ月間、そのあとのジェーンとの楽しい日々を思えばそんなことはたいしたことではなかった。


僕は深く頷いて、そうして僕らは離婚に合意した。


ジェーンにはもちろんこの条件のことを話した。


何をしても変わらないのにね、彼女はそう言って、若くて明るい声でころころと笑った。


そして僕らの最後の一ヶ月が始まった。


1日目はとても窮屈だった。離婚を切り出してから僕は妻に触れていない。


彼女を抱きかかえた時の違和感は、なんとも居心地の悪いものだった。


ただ、うしろをついてくる息子は大喜びだった。


「パパがママをだっこしてる!」、


小さな手を叩きながら、かわいらしい笑顔を居間中にふりまいていた。


妻は僕のほうにそっとよりかかって静かにささやいた。


「離婚のことは息子には言わないでね」。僕は軽くうなづいた。もちろんだ。


ベッドルームから居間、そして玄関までは10mほどだった。


そっと彼女を下ろすと、彼女はバス停のほうに歩いて行った。


僕は心に居心地の悪いしこりをのこしたまま、ひとり、車で仕事に向かった。


2日目は1日目よりも、ずっとスムーズだった。


彼女はぼくの胸に身体をあずけてきた。彼女からは良い香りがした。


僕はずいぶんと長い間、この女性を見ていなかったことに気がついた。


彼女はもう若くはなかった。顔には上品なシワが刻まれているし、白髪も混じり始めている。


そんな彼女を見て、なんてことを彼女にしてしまったんだ、という思いが一瞬、心をよぎった。


そう、ほんの一瞬・・・。



4日目、僕が彼女を抱き上げた時、なんともいえない気持ちになった。


10年間、彼女は僕に寄り添ってくれたんだ、自分の10年を僕に惜しみなく与えてくれた女性が


この人なんだ・・・。日を追うごとに僕のなかにそうした気持ちが芽生えていった。


ただ、ジェーンには言わなかった。そして最後の1ヶ月が過ぎていった。


ある日、妻が服を選ぶのに手間取っていた。どれも大きくなってしまったわ、困ったわね。


あらためて見るとたしかに彼女はほんの少しずつ小さくなってきているようだった。


毎日運ぶのが楽になってきている、と感じていたのもそれが理由だったのかもしれない・・・


そうぼんやりと考え始めた時、突然、雷に打たれたように僕は理解した。


僕が離婚を切り出してから、彼女はずっとずっと辛かったんだ。


苦しい思いをこの小さな体に閉じ込めて耐えてきたんだ。


ごく自然に僕の手が彼女の方にのびて、彼女の頭をそっとなでていた。


「ねぇ、ママをだっこする時間だよ!」、息子がはいってきたのはそのときだった。


妻は息子の方にゆっくり向き直り、その小さな身体から大きく手をひろげて息子をぎゅっと抱きしめた。


僕はその光景から目をそらしてしまった。わかっている、だめだ、もうあとには戻れないんだ。


さぁ、と促して僕は彼女を抱きかかえた。ベッドルームから居間へ、そして玄関へ。


彼女は僕の首に腕をまわしてとてもリラックスしていた。


その日は何かが違っていた。ぼくは彼女を力強く抱きしめていた。ちょうど僕らが結婚した日のように。


最後の日が来た。




僕は彼女がどんどん軽くなってきているようで悲しかった。


その日、僕は彼女を抱きかかえたまま、しばらく動けなかった。


息子はもう学校に行っていた。僕は彼女を強く抱きしめてから静かに言った。


「僕らの人生に思いやりが足りていなかったと、もう少し早く気づいていればよかったよ・・・」。



僕は車でオフィスに向かった。そして、オフィスに着く頃にはもうわかっていた。


鍵もかけずに車を停め、階段をかけあがってドアを勢い良く開いた。


いつもの朝、いつものオフィス、そしていつもどおりの可愛らしい笑顔でジェーンが僕を迎えてくれた。


その日、違っていたのは僕だけだった。


「ジェーン、すまない、離婚しないことにしたんだ」。


彼女は驚いた顔をして立ち上がり、僕の方にに近づいきて、その小さな手で僕の額に触れた。


「熱があるの?」首をかしげてジェーンは言った。彼女の手をふりはらって僕は続けた。


すまない、やっぱり離婚しないことにしたんだ。僕と妻の結婚生活は確かに退屈だった。


でもそれは日々の小さな幸せを僕が見ていなかったからなんだ。


そして僕はやっぱり妻を愛している。結婚式で妻を抱きかかえた時に僕は誓ったんだ、


死ぬまで彼女をしっかりと抱きしめるって。僕はそうすることにしたんだ。


彼女は一瞬、目を見開いてから一歩後ろにさがった。


信じられない、彼女の表情はそう言っていた。


僕に強く平手打ちをしてから彼女の瞳いっぱいに、ゆっくりと涙がたまっていった。


彼女が僕を罵りながら泣き出すのにそう時間はかからなかった。


ただ、取り乱す彼女を気遣う時間が僕にはなかった。


オフィスから逃げ出すように車に乗り込んだ僕は花屋に向かった。


妻にきれいなブーケを贈りたかった。


「メッセージをおつけになりますか?」、少女のような店員がそう言って、


そっとカードを机に置いてくれた。


僕は微笑みながら ーこれからの妻との新しい人生を思いながらー 次のように書いた。


「死が僕らを分かつまで、毎朝、僕は君を抱きかかえるよ」


僕は家に向かった。


家のまえで立ち止まって姿勢を正し、ブーケを手にして、


せいいっぱいの笑顔を浮かべながら部屋に入っていった。


彼女はベッドに横たわっていた。「ねぇ」、そう話しかけた僕に妻が答えることはなかった。


彼女は死んでいたのだ。


ガンだった。しばらく前からずっとそうだったのだ。彼女がガンだったなんてまったく気づかなかった。


小さくなっていったのはそれが理由だったのだ。1ヶ月、期間をおいたのもそれが理由だ。


もう長くはないとわかっていた彼女が息子に見せたかったのは、


幸せな両親の姿、そして愛情深い父親の姿だったのだ。


間違いを犯そうとしていた僕を最後に救ってくれたのは、死を間近にした妻だった。


・・・あなたにお願いがある。


マンションや、車、お金なんかは幸せを作る環境にしかすぎない。


他の人との関係においてしか幸せは生まれない。


それを忘れないでほしい。あなたが結婚しているなら、毎日の小さなことを大切にしてほしい。


それがお互いへの思いやりを作っていくのだから。



幸せな結婚生活を・・・。