
1585年、小牧・長久手の戦い
440年前の昔むかしの遠い昔の人間のお話なんだ。と思ったら現在の人間世界の紛争・戦争に照らしたら人間様も440年前と変わっていないようだ。
昨年の年の瀬に深夜近くのお寺の鐘がゴーンと聞こえた。除夜の鐘らしい、数えたことはないが108回打たれるようだ。煩悩は仏教用語と聞くが、人間には煩悩の数が108もあるそうだが、私の煩悩が108も数えたことがない。煩悩だらけの私は
スパスパ出ると思ったら煩悩って人間の生き甲斐かもね。
天下をとってみたい。高級車が欲しい、大きな家に住みたい、毛カニを吐くほど食べてみたい、燃える恋がしたい、宝くじ10億円当たってみたい。・・・と108も煩悩をだすのも四苦八苦する。
4x9=36 8x9=72
36+72=108 かもしれない。?
これは言葉遊びですので、煩悩の数とは関係ありません。
煩悩(ぼんのう)があるから440年経っても生きていられる。煩悩は人間のエネルギーの源だ。
織田信長もあと一歩のところで天下人になるところ、家臣の明智光秀に本能寺の変で殺された。
煩悩のひしめく中、次男の織田信雄が織田の氏を名乗った。
お断りさせてただきます。1586年、羽柴を豊臣と陽姓され、今後は豊臣秀吉と変更させていただいます。
織田信長の家督争いで豊臣秀吉と徳川家康と織田信雄が争った。
現在に当てはめると、豊臣秀吉領はロシアで織田信雄領がウクライナで徳川家康領がNATOに当てはまる。
豊臣秀吉は山崎の戦いで主君の仇討ち明智光秀を倒した。更に天下人を目出して邪魔をする者を排除し領地を拡大していった。
いずれ、豊臣秀吉に併合されるだろうが、織田信雄は徳川家康の力を借りようと交渉した。徳川家康も織田信雄領は豊臣秀吉との緩衝地帯とし、秀吉との直接の接触を避けたかった。
家康も天下人への野心もあるだろう織田信雄の支援をするという大義名分が付き豊臣秀吉との戦いに撃って出た。
豊臣秀吉には軍師黒田官兵衛が
毛利氏との国境画定協議の為に留守をしていた。大阪城に帰ることがあったが中国地方広島に出かけていた。
徳川家康と豊臣秀吉が1対1で戦ったら私は家康に軍配を挙げるが秀吉には黒田官兵衛がいないから決まりだが秀吉には10万人の軍勢がいる。
家康は秀吉との軍勢の差を埋めるため全国の大名に手紙を送り加勢を頼み、更に、信濃、甲斐、北条氏、佐々成政と手を組み、和歌山の雑貨衆、四国の長曾我部元親と豊臣秀吉の包囲網を画策した。
信雄・家康連合軍は約1万7千人、秀吉軍は10万人という、圧倒的な戦力差でした。 しかし、長久手の戦いに家康連合軍は勝った。
戦いは先手必勝で家康は相手の動きを読んでいた。
秀吉側の大将が実践経験のなかったこと、何よりも黒田官兵衛がいなかったことが勝因のようだ。
豊臣秀吉にとって最大の汚点を残した。その後も秀吉は家康に決戦を挑もうとし、しばらく両軍の睨み合いの状態が続きました。
戦いは9ケ月も掛かり豊臣秀吉は戦いを早く終わらせたかった。そうでないと戦いが長引くと全国の大名が秀吉,恐れることなしと刃向う者も出よう、今後の天下統一に支障きたすのを恐れた。
そこで、豊臣秀吉は織田信雄と講和を結んでしまえば徳川家康はこの戦いの大義名分が立たなくなる。徳川家康はそそくさと引き上げた。さすが猿(豊臣秀吉のこと、生前、織田信長が猿と呼んでいた)である。
ところが、1586年1月18日、「天正大地震」が起き被害は中部、東海・北陸の広範囲に及んだ。このとき秀吉は近江国坂本城にいたが、あまりの恐ろしさにすぐに大坂城に逃げ帰ったという。
この地震よって、徳川家康は豊臣秀吉に討たれて徳川の江戸時代もなかったかもしれない。あやゆい時代だ。
天下分け目の戦いと「1600年の関ケ原の戦い」の前に、豊臣秀吉と徳川家康が直接戦った「小牧・長久手の戦い」を知った。
関ケ原の戦いは、豊臣秀吉が亡くなって、徳川家康と石田三成の東軍と西軍に分かれて、美濃国(岐阜県)で戦った。これも誰が天下を取るのかの戦いだ。日本の国会を見てご覧よ。歴史も現在に置き換えたら遠い昔でもないような気がする。
50年前からなぜかいつも傍にいる人に言われた。「あなたも若い頃はなにも知らなかったのよ」と言われながら生きて来たのよ。
ハットおどろくタメゴロウ~
あなたが正しいそのとおり!