
私が死んだら、どこに埋められるのか,どんなお経で葬られるのか念の為、兄に尋ねた。頼りの兄も判らない。答えは後日となった。
兄は、5人兄弟で一番、美男子で成績も優秀だ。後日、兄がお寺に行ってお坊さんに聞いたようだ。法然の浄土宗と判明した。
死んだら、どんな形式で葬式をするのか、どこのお墓に入れてくれるのか墓石の手配もしなければ、気になっていた。
無宗教という人のお葬式に参列したがお坊さんも、いなく、お経もなく、ただ、荼毘にふされ、故人をふりかえる時間もなかった。
極楽浄土も行ったことがないし、ワシャ、しんらん。
「どなたか、この子を生き返らせて下さい」 と死んだ我が子を抱いて町をさ迷っている母親。
「私は、その子を生き返らせることができます」 と、「ただし、死人をお一人も出していない家のケシの実を貰ってくるように」 と見知らぬお釈迦様に言われた。
女は町じゅう探したが死人を出したことのない人の家など一軒も見つからなかった。
この話は、昔に聞いて私の脳裏に残っていた。
鎌倉時代は朝廷とか武士の世の中、お坊さんも恵まれた貴族の出身の方も多く、貴族でなければ仏とは、無縁の時代のようだった。
親鸞の父は身分の高くない貴族で、母は、親鸞が7歳の頃に亡くなったようだ。
平家と源氏が争って、不安定なご時世だった。元・高麗軍の大軍が2度も日本に攻めて来た時代でもあった。
平氏が放った火が、奈良の東大寺、興福寺などが焼け、京のみやこも荒れていた。
親鸞8歳の時に僧となり、比叡山で修行した。
「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)。
この念仏をとなえ阿弥陀さまにすがれば、ただそれだけで、誰でも次の世の極楽浄土に生まれることが出来る。
慈悲深い阿弥陀さまは、どんな悪人でも、やさしい心で救ってくださる」
このように教える「浄土真宗」の開祖は親鸞あった。
比叡山では、最澄の天台宗の寺に入って板の間が凍りつくような寒い日、一心に修行に励んだ。
しかし、比叡山での修行では、満足した悟りを得られず、親鸞聖人は、29歳のとき、比叡山を去る決心をされたのです。
その後、聖徳太子が建てた京都の六角堂へ入り、救いを求めて100日間の祈りをつづけた。95日目の夜が明けると、法然のもとへ行きました。
「南無阿弥陀仏とは、阿弥陀さまにすがることで、自分の力で仏に救われようとしてはならない。
ただ一筋に南無阿弥陀仏を念じてさえいれば阿弥陀さまが救ってくれる」 これが浄土宗を説く、法然の教えでした。
ただ「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで阿弥陀さまが救ってくれるのであれば、苦行して僧になる必要もない。
山伏のように滝にうたれたり荒行に、深夜、山を駆け巡つて修行を積み、自分で悟りをえるのかベストなのか、ただ「南無阿弥陀仏」を唱えるだけで寛大な阿弥陀さまが悟りを開いてくれる。
僧も僧兵になる者もでき朝廷の歯車となり、その歯車にそぐわない僧は、僧の身分をはく奪された。
法然は土佐(高知県)に、親鸞は、越後(新潟県)に流罪となった。
そもそも、僧が結婚することが禁じられていたが、親鸞は「人間が人間らしい生活を求めて、どうして悪いことがあろう。
阿弥陀さまは、どんな人間でも、けっして、さげすんだりはしない筈だ」と親鸞はこの土地の豪族の娘と結婚し、のちに、出家して恵信尼となった女です。恵信尼との子供もできた。
流罪になって5年目で、罪をゆるされたが法然は京に帰れたが親鸞は京に帰らず常陸国(茨城県)に落ち着きました。
その1年後、法然の死を知った。
涙も枯れはて、京に帰ることを断念し常陸国を中心に「貧しい人に、法然の教えを伝えよう」
それから、親鸞は、東国の村々を17・8年まわった。
またたくまに親鸞の教えもひろまった。それを面白く思わない人もいるだろう。
鎌倉幕府は、武士が中心の世の中、町人や農民の生活も苦しめられた。
親鸞は長い教訓から導き出された経典を輩出した。人は金持ちになり、偉くなれば、おごりたかぶりは常ですが、それをいましめとして、つたえたかったのだろうな。
親鸞は、京のみやこに帰って来て、およそ30年90歳になっても筆を離さなかった。
親鸞は、念仏を唱える人のこと、恵信尼のこと、子供のことを思いやりながら、眠るように、極楽浄土へ旅立たれた。死後、浄土真宗の開祖とよばれるようになり。
親鸞の教えは、弟子の唯円(ゆいえん)がまとめ 「歎異抄」 にわかり易く伝えられているようです。