古い、ふるい、実に古い。
私が和歌山の山奥から東京に来た頃は東京にもよく雪が降った。1969年ころだ。みんな生まれていないようだが、私の田舎にも雪が降った。

東京の暮れともなれば、忠臣蔵を思い出す。大石内蔵助47義士の仇討ちで、三波春夫さんの歌を聴いて満足して、除夜の鐘で暮れた。
 
赤穂浪士の討ち入り事件は、ず~と昔の話と思っていたが、320年前の江戸時代の話のようだ。

 昔の話は誰も聞きたくないだろうから、江戸時代にこんなことがあったんだって。

 兵庫の赤穂藩主浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が江戸城の松之廊下で愛知の吉良上野介(きらこうずけのすけ)に斬りかかった事件だそうだが。
 
徳川第五代将軍の徳川綱吉が
浅野内匠頭の所領を没収し即日切腹を命じたが、吉良上野介はおかまいなかった。

 1年後、大石内蔵助率いる47義士たちが吉良上野介の仇討ちを果たし、首を取った。
 47義士の働きは、大衆は手放しで喜んだ。

徳川綱吉もあっぱれと賛同していたが、側用人(そばようにん、社長秘書のよう)の柳沢吉安が徳川幕府の権威を示すうえでも毅然としたお裁きを示した。

綱吉は28年余り将軍として在籍したが、柳澤は綱吉のお側用人としてとんとん拍子で出世した。
あまり、良いうわさがきかないようだった。

 綱吉と聞けば「生類憐みの令」でも知れ渡っているが、占い師から子供が授からないのは・・・と言われ令を出したそうだが鳥、貝、肉を食べるのを禁止され、井戸に落ちた猫を助けなかったので切腹、鳥を飼ってはならん。とかいろいろ動物の折衝禁止令が出された。

庶民は生活に四苦八苦していたので、犬、猫などに神経がまわらなかったのだろう。実に悪法だったようだ。

 綱吉は、徳川第三代将軍家光の四男で徳川の将軍には程遠かったが、計らいで将軍になった。
 そのお一人の水戸光圀は「生類憐みの令」に大反対だったが、柳沢吉安が事を治めた。

 益々、綱吉のご機嫌もよく、柳沢一族の繁栄に寄与した。

綱吉の「生類憐みの令」は綱吉の死後100年は廃止を禁じたが、綱吉の死後、悪法「生類憐みの令」が廃止された。

 ところで、赤穂47義士は本来なら首を斬られるのだが、世も幕府内でも助命の意見もあり、50日近く熊本藩など四大名家に預けられた。

 生き延びても中にはいい気になって恥をさらすものも出るやもしれない。

 武士として、切腹が最善の方法と御沙汰が出た。
 
大石内蔵助赤穂義士47名は切腹の後、高輪の泉岳寺に祭られ永久の眠りについたと聞く。

 私も泉岳寺には何回か行きましたが47士の石碑もあった。

 赤穂市と吉良町は仲が悪いと思っていたら、交流もあるという。
新幹線で吉良町を見つけた
かつて愛知県幡豆郡にあった町。 2011年4月1日に西尾市に編入合併された。

 観光でもいいから、泉岳寺に訪ねてください。夏は涼しかった。