JINでコレラ菌にかかった患者のうんこを土に埋めた、龍馬が死んだ。なんぼ、龍馬が大政奉還を徳川幕府に飲ませても、武力で新政府軍は倒幕をやった。理想主義者はどの時代でも殺される運命だ。正直、いまだに龍馬を暗殺した黒幕は分からない、ただ、私の新しい推理だが、何故土佐藩、後藤象二郎は龍馬を土佐藩邸で守らなかったのか?龍馬のお陰で土佐藩も時流に乗れたのに、下士出身の龍馬に土佐藩を仕切られるのが嫌だったのかなぁ・・・龍馬死後、後藤象二郎は龍馬に憧れていた下士の岩崎弥太郎に(三菱創設者)飲み込まれる。

龍馬が死んで150年が過ぎて、今日本で一番人気がある歴史的人物はダントツで坂本龍馬です。特に女性にめちゃくちゃ人気がある。女性に人気があると言うことは殺し合いが嫌いである。

うんこで長く引っ張りましたが(笑)

もし、龍馬が今生きていたなら、村上春樹さんのバルセロナでのスピーチを支持すると思う。龍馬はhumanityだから・・・

余談ですが・・・あのビルゲイツと親友である孫正義が何千人の前で「私は竜馬がいくを読んで目からウロコが落ちました。何故、私はこんな小さな人種、差別に悩んでいるのか・・・」

最終章・・・村上春樹さんのスピーチ

その大がかりな集合作業には、言葉を専門とする我々=職業的作家たちが進んで関わる部分があるはずです。我々は新しい倫理と規範と、新しい言葉と連結させなくてはなりません。そして生き生きとした新しいも物語を、そこに芽生えさせ、立ち上げてなくてはなりません。それは我々が共有できる物語であるはずです。それは畑の種蒔き歌のように、人々を励ます律動を持つ物語であるはずです。我々はかって、まさにそのようにして、戦争によって焦土と化した日本を再建してきました。その原点に、我々は再び立ち戻らなくてはならないでしょう。

最初にも述べましたように、我々は「無常」という移ろいゆく儚い世界に生きています。生まれた生命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていきます。大きな自然の力の前では、人は無力です。そのような儚さを認識は、日本文化の基本的アイデアのひとつになっています。しかしそれと同時に、滅びたものに対する敬意と、そのような危機に満ちた脆い世界にありながら、それでもなお生き生きと生き続けることへの静かな決意、そういった前向きの精神性も我々には具わっているはずです。

僕の作品がカタルーニヤの人々に評価され、このように立派な賞をいただかたことを、誇りを思います。我々が住んでいる場所も遠く離れていますし、話す言葉も違います。依って立つ文化も異なっています。しかしなおかつそれと同時に、我々は同じようにな問題を背負い、同じような悲しみと喜びを抱えた、世界市民同士でもあります。だからこそ、日本人の作家が書いた物語が何冊もカタルーニヤ語に翻訳され、人々の手に取られることにもなるのです。僕はそのように、同じひとつの物語を皆さんと分かち合えることを嬉しく思います。夢を見ることは小説家の仕事です。しかし我々にとってより大事な仕事は、人々とその夢を分かち合うことです。その分かち合いの感覚なしに、小説家であることはできません。

カタルーニヤの人々がこれまでの歴史の中で、多くの苦難を乗り越え、ある時期には苛酷な目に遭いながらも、力強く生き続け、豊かな文化を護ってきたことを僕は知っています。我々の間には、分かち合えることがきっと数多くあるはずです。

日本で、このカタルーニヤで、あなた方や私たちが等しく「非現実的な夢想家」になることができたら、そのような国境や文化を越えて開かれた「精神のコミュニティー」を形作ることができたら、どんなに素敵だろうと思います。それこそがこの近年、様々な深刻な災害や、悲惨きわまりないテロルを通過してきた我々の、再生への出発点になるのではないかと「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」ではなくてはならないのです。人はいつか死んで、消えていきます。しかしhumanity(人間である事、人間らしさ)は残ります。それはいつまでも受け継がれていくものです。我々はまず、その力を信じるものでなくてはなりません。

最後になりましたが、今回の賞金は、地震の被害と、原子力発電所事故の被害にあたった人々に、義援金として寄附させていただきたいと思います。そのような機会を与えてくださったカタルーニヤの人々と、ジャナラリター・デ・カタルーニヤのみなさんに深く感謝します。そして先日のロルカの地震の犠牲になられてみなさんにも、深い衷悼の意を表したいと思います。

村上春樹