昨日、三つの番組を録画をして、夜まとめて見る予定だったが、苦しくて5分も見れなかった。
崩れた家の上から「ばあちゃん、ばあちゃん」と呼ぶお孫さんの映像が流れた瞬間。もうだめだった。今年1月17日で阪神大震災15年を迎えた。また私にも大きな出来事があった。脳梗塞で死にかけた。

私が、阪神大震災について何も話す立場でもないし、6434人が犠牲になった遺族の気持ちも計り知れない。話す資格もない。
朝18日朝刊に・・・「娘よ、逃げないで来たよ」と震災で娘を亡くしたお母さんの記事が載ってあった、記事から・・・名前が刻まれた銘板の前で声を上げて泣き出した。ここ数年は、思い出すのが怖くて来られなかった。「今年は15年の節目、なんとしても慰霊したかったので逃げないで来ました」

震災当時、私は少年サッカークラブ(ヴェジット)の形すらなくて、ただ、ブラジルサッカー留学(学校設立準備)で一発儲けたると燃えていた。ブラジル人選手をブラジルから連れてきて、妻に飯炊きをさせていた、妻には「待っとけよ、Jに売れたら贅沢させたるから・・・」今考えると絶対叶わない夢を妻に吹き込んでいた。

当時日本での仕事は保育園で幼児にサッカーを指導して、園のお手伝いをしていた。
実は私は震災後、数回、保育園園長の呼びかけで、救援物資を持って神戸の町に入った。

救援物資を届ける・・・正直「救援活動をやった」そんな気持ちには絶対なれないぐらい、町はひどかった。

私は今、少年サッカーで全国いろいろ遠征行かせたもらっている。仲間から「金ちゃん、今日のブログのネタ面白いよ」と連絡が入る。
今日の新聞を読んで、仲間たちに、私の目で見た町を、話したい気持ちになりました。

正直。町に入った瞬間思った事は「神様、一体何やってくれてるねん」