あいにくの曇り空の下、僕は後輩の住んでいた街へ向かった。途中のターミナル駅で、お供えする花を買った。最寄り駅で、僕はもう1人の後輩と落ち合い、2人で彼女の家に向かった。年賀状のやり取りを数十年続けてきたが、そこに書かれた差し出し人の住所を訪れるのは、今回が初めてだった。Googleのストリートビューと寸分違わぬ外観の家の前に、約束の時間より少し早く着いて、インターホンを鳴らすと、扉が開いて、彼女の旦那様が出てきた。

そこに、彼女の姿はなかった。

 

 

 

彼女、すなわち、高校の演劇部の一つ下の代の部員、えっちゃんが亡くなったのは、昨年の7月14日。僕がそれを知ったのは、昨年の12月だった。葉書を受け取った時、信じられなかった。死因が書かれていなかったので、一体彼女がいつ頃から、どんな病魔に冒されていたのか、その時点では全く分からなかった。すぐに葉書に書かれていた彼女の旦那様の携帯に電話して話を聞いてみると、何と7年も前に彼女は癌になり、闘病していたのだという。先に書いたように、僕は、彼女とはずっと年賀状のやり取りをしてきた。だが、思い当たるような節は全くなかったので、本当に驚いた。

高校の約2年間、僕とえっちゃんは部活動(演劇部)で一緒に活動した。彼女は僕のことを「お兄ちゃん」と慕ってくれた。そんなこともあったので、やはり線香の1本もあげたいと考えた。ただ、1人で行くのはちょっと気が引けたので、同じ演劇部の女性の後輩(えっちゃんと同じ代で、途中で退部)を誘い、2人で訪れた。僕が花を、後輩が菓子折を持って行った。駅からの道順は簡単だったが、距離がややあった。駅の北側に広がる閑静な住宅街の中に彼女の家はあった。僕と後輩は、えっちゃんが暮らした街を、彼女が何遍通ったか分からない道を通って、彼女が二度と敷居をまたぐことのない家に辿り着いたのだった。

 

 

 

祭壇に花を手向け、遺影の前で線香をあげ、手を合わせた。穏やかに微笑む遺影の彼女は、昔のままだった。実際その写真は、結構前に撮られたもので、どこかのお祭りに参加している時の写真をトリミングしたものだった。そのため、彼女ははっぴを着ていた。

花を手向け、線香をあげてから、僕と後輩は、旦那様から彼女の話を聞いた。

えっちゃんは、7年前に乳癌が発見され、薬による治療を行っていた。乳房の摘出をした方が確実に治るとされていたが、彼女は頑なにそれを拒んだという。そうこうしているうちに、一度小さくなった癌が再び広がった。それでも、彼女は、乳房の摘出に最後まで首を縦には振らなかったという。一緒に行った後輩が「えっちゃんらしい…」と呟く。彼女は昔から、よく言えば意志が強く、悪く言えば頑固だった。彼女には、彼女なりの美学があったのだろう。女性にとっての乳房は、男性には分からない、守るべき何らかの価値があるのだと思う。最後は医者にも見放され、自宅での療養となった。ただ、亡くなる1ヶ月前には、薬が効いて体調が持ち直し、料理までしていたという。それが、えっちゃんの命の蝋燭の最後の輝きだった。

最期は、蝋燭の火が消えるように逝ったという。

自宅療養中、かつての職場の仲間などがお見舞いに訪れていたそうだが、学生時代、より正確には高校時代より前の友人・知り合いには、本人が連絡しなくてもいいと言ったという。彼女にとっては、学生時代は遠い過去であり、現在には繋がっていなかったのだろうか。少しショックである。

 

 

 

旦那様は、コルクボードにえっちゃんの写真がたくさん貼られたものを見せて下さった。遺影の元になった写真も貼られていた。彼女の実家から譲り受けたという、彼女の幼い頃の写真も貼られていた。新婚旅行で行ったという、エアーズロックでの写真もあった。赤ん坊を抱く姿もあった。職場の仲間と行った旅行の写真もあった。本当にたくさんの、僕の知らない彼女がいた。考えてみれば、僕と彼女の付き合いは、高校の演劇部時代の約2年間と、その後就職するまでにごくたまに会う位のものだったので、彼女にとっては、僕のいない人生の方が圧倒的に長かった。それを、たくさんの写真達が証明しているようだった。

そして、彼女が趣味で手作りしていた飾りのようなものを、最後にいただいた。そんな趣味があったことも、僕も一緒に行った後輩も知らなかった。本当に知らないことだらけだったのだなと、改めて思った。

帰り道、駅に近付くと雨が降ってきた。えっちゃんの涙雨のようだと思った。

医療従事者として、母として、妻として、彼女は最後まで頑張ったと思う。いろいろなことがあっただろう。亡くなった年の年賀状を読むと、

 

「昨年は身の回りで本当に色々な事があり、心身共にすり減へった気がしています」

 

と書かれていた。その中には、病気のことも含まれるだろう。彼女には、休息が必要だったのかも知れない。

 

 

 

そんなえっちゃんと僕は、一昨年の冬に会っていた。彼女から連絡がきたと思っていたのだが、そうではなく、年賀状に彼女が、自分と同じ代の演劇部員と久し振りに会ったという話を書いていたのを読んで、僕が誘ったのだ。学生時代の話、自分達やその当時の部員達の現状等を、結構長いこと話した。なかなか会える人ではないので、ついつい話し込んでしまった。思えば、この時にも癌は彼女の体を蝕んでいた。きつかったのかも知れないが、彼女はおくびにも出さなかった。「癌」という具体名だけでなく、病気に罹っていること自体、彼女は話さなかった。

僕の誘いに彼女が応じたのは、自分の命があまり長くないと、どこかで分かっていたのかも知れない。結果的に、これが彼女に会った最後になった。

その年の7月に、僕のユニットFavorite Banana Indiansは第13回本公演を行った。そのお知らせを彼女にLINEで送ったが、彼女からは「行かれない」という返信があった。忙しかった僕は、それに対して何も返せなかったので、僕と彼女のやり取りは、そこで永遠に途切れることになった。病気のことを知らせてくれていれば、と今更思ってしまう。

 

 

 

短い間の付き合いだったが、えっちゃんは、僕に色々なものを残した。例えば、僕が中島みゆきの大ファンなのも、高校時代に彼女がファンで、僕もつられて聞き始めたのがきっかけである。中島みゆきの音楽の世界観や、アーティストとしてのみゆきさんの姿勢・生き様に、僕は大きな影響を受けた。もしえっちゃんがいなければ、僕は中島みゆきをここまで聞き込むことはなかっただろう。その意味で、えっちゃんは僕の人生に多大なる影響を与えたと言える。

僕は、彼女の人生に何を残せたのだろうか。

僕が彼女の「お兄ちゃん」であったのは、高校時代の数年に過ぎない。その時代がどれだけ彼女その後の人生に影響を与えたのだろうか。今となっては知る術もない。

54年という短い人生に幕を閉じたえっちゃん。僕が彼女の兄であった時代と、彼女の笑顔は、僕の中に今も生きているし、これからもずっと生き続けることだろう。

今はただ、彼女の魂が安らかに眠ることを祈るのみである。

 

 妹じゃあるまいし

 別れたらそれまで

 笑顔も泣き顔も

 別れたらそれまで

(中島みゆき「妹じゃあるまいし」)

 

 

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