今日は早起きして、地域の活動で駅の清掃に行ってきました。
ごみぶくろが、たばこの吸殻やお菓子などの紙くずでいっぱいになりました。
駅もきれいにして、すがすがしい朝です。
solさんの記事で座禅のことが書いてありましたね、ちょうどいい機会なので、
私からも一つ座禅についての一歩踏み込んだお話をしたいと思います。
私は仏教に興味を持ち出した2年ほど前から、
真言宗系のお寺で本格的な座禅修行を月に一度するようになりました。
経を読誦し、手で大日如来の印を結び、水面の波紋を消すように、精神を静かに落ち着かせます。
座禅とは、菩薩行の6つの実践である六波羅蜜(ろくはらみつ)の中の一つ、禅定波羅蜜(ぜんじょうはらみつ)のことなのです。
禅とは、迷いを断ち、心を鎮め、真理を明らかにして体得することであります。
定とは、仏道修行の三学「戒・定・慧(かい・じょう・え)」の一つである定のことで、心の雑念を取り払って精神を統一することです。
禅定とは、精神を統一し、雑念を取り払って
自らの心の中にある大小さまざまな煩悩を観察し尽くすことで、悪い欲や誘惑などの煩悩自体を滅ぼそうとすることなのです。
この禅定は、仏教経典とともに中国に伝えられて発達し、やがて日本にも伝わってきたものです。
禅といえば、
禅宗という宗派がありますね。
禅宗では座禅のことを摂心(接心・せっしん)といいます。文字通り、心に接するということですね。
そして、座禅の極意ですが、
これは一般的な座禅の本には書かれていないことだと思いますが、
獅子吼菩薩品(ししくぼさつぼん)というお経の中に
「自らの度脱(悟り)の為にし、衆生の為に修しない摂心(三昧)は真の摂心(三昧)にあらず。」
と記されてあります。※三昧とは、仏教やヒンドゥー教において、精神集中が高まりきったときのことを言います。
つまり、真の座禅とは単に自らの悟りや自己向上のためにするのではなく、
衆生のために、命あるものすべてのために、行っていくものなのです。
他者をすくっていけるような自分になるためにするということです。
そして、究極の禅定(座禅)とは日常の行動の一切にあるといわれています。
毎日の生活の中で、自分の欠点を改めて心を磨いていくことが、それすなわち究極の座禅なのです。
煩悩を滅するには、他のためを思って行っていくということ、
それが座禅の真の意味です。
私のセミナーCDの中でも、私欲に打ち勝つためには他欲を持て、と言いましたね。
そういうことです。自らの煩悩を滅するには、他人の役に立つことを考え、他人を喜ばすことを考え、
他人に与えることを考えればいいということなのです。
仏教は深いですよ。
ちまたの成功法則を学ぶより、仏教を学ぶほうが核心的です。
なんたって、歴史の厚みが違いますからね。
私が仏教に興味を持ったのは、
ここに伝わっていることには、相当な価値があると思ったからです。
世界では仏教学を履修する学生も増えてきていて、
一つの生きるための智慧、生活指導として、
これからはもっと世の中に広まるかもしれませんね。