念仏してもお経を聴いても入定することができる | 浄空法師説法研究

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念佛可以入定,聽經也能入定 / 念仏してもお経を聴いても入定することができる
文摘恭錄—淨土大經解演義(第五三六集)2011/8/12 檔名:02-039-0536

禪是修開悟的,聽經也修開悟,為什麼?你聽這個經文,字字句句都是自性,都是真心,真心流出來的言語文字,它跟世間法不一樣。聽多了,聽的時候不要去想它,只一味的去聽、一味去讀,自然就通了。中國古人所謂「讀書千遍,其義自見」,我們聽經,把這個經聽成一千遍,意思也自見,自見就是什麼?徹悟,大徹大悟。要不要去想它?不需要。所以世間法要研究,東西拿去研究研究,研究是什麼?用第六意識。佛法不用第六識、不用第七識,佛法不叫研究,叫參究,方法不相同,什麼叫參究?不用心意識就叫參究;用心意識是研究,六道裡頭人幹的。
禅は悟りを開く修行です。お経を聴くことも悟りを開く修行です。なぜでしょう?あなたが聴くこの経文は一字一句すべてが自性(注1)であり、すべてが真実の心であり、真実の心から流露した言葉だからです。世間の法と同じではありません。何度も聴いて、聴く時に考えてはなりません。ただ一途に聴き、一途に読めば、自然に通じるものです。中国の古人は、「読書千遍,其義自見」(読書千遍、其の義自ら見(あらわ)る)(注2)と言っています。私たちがお経を聴くのに、一千遍お経を聴けば、意味は自然に分かります。自然に分かるとはどういうことでしょうか?大徹大悟(悟道に徹し真理を大悟する)ということです。意味を考える必要はあるでしょうか?その必要はありません。ですから世間の法では、物事を研究しようとします。研究とは何でしょう?第六意識(つまり意識)を使うことです。仏法は第六識を使わず、第七識を使いません。仏法では研究とは言わず、参究と言います。方法は同じではありません。参究とは何でしょう?心意識を用いなければ参究です。心意識を用いるのは研究であり、六道の中の人が行うものです。

搞出世間法的他不研究,他在這裡聽兩個小時的經,他在這裡入定兩個小時。入定,聽得清清楚楚、明明白白,定也叫做止觀,所有一切妄念停止。觀是什麼?講經,句句清楚,沒聽錯,沒有漏掉,讀經也是的。這個方法,《大乘起信論》裡頭馬鳴菩薩說得很清楚。念佛、聽經都是真修,念佛可以入定,聽經也能入定;聽經會開悟,念佛也會開悟。最忌諱的是有雜念滲透進去,就把你的功夫破壞掉了,不允許雜念夾雜在裡頭。所以,從聞而思。
出世間の法を修める人は研究しません。ここで二時間お経を聴き、ここで二時間入定(注3)するのです。入定すれば、聴くところは明快で、よく理解することができます。「定」は止観とも言います。すべて一切の妄念を停止させます。「観」とは何でしょう?講経を聴く際に、一字一句が明快で、聴き間違えず、聴き漏らさないことです。読経においてもそうです。この方法は『大乗起信論』において馬鳴菩薩が明快に説かれています。念仏すること、お経を聴くこと、すべて真の修行です。念仏は入定することができ、お経を聴いても入定することができます。お経を聴いて悟りを開くことができ、念仏しても悟りを開くことができます。最も避けなければならないのは、雑念が入り込むことであり、それではあなたの技量は壊れてしまいます。雑念が入るのを許してはなりません。「従聞而思」(聞いたまま思う)(注4)ということです。

<脚注>
1.自性(じしょう)・・・・私たちが本来備えている真の性質。心の本性。真如法性(しんにょほっしょう)。

2.
読書千遍,其義自見
  読書(どくしょ)千遍(せんぺん)、其(そ)の義(ぎ)自(おのずか)ら見(あらわ)る
  どんな書物でも繰り返し熟読すれば、その真義は自然に分かるものである。

3.入定(にゅうじょう)・・・・禅定に入ること。煩悩を去り、無我の境地にはいること。

4.従聞而思
  これを「聞くに従ひて而して思ふ」と読み下すと、かえって真意を受け取れないと感じますので、簡単に「聞いたまま思う」と訳しています。お経を聞いてあれこれ思考するという意味ではなく、一切とらわれずに、ただ自然に聞いている状態だと思われます。(筆者)

<参考>
以下、ネットで見つけた資料を載せておきます。
http://blog.udn.com/arongsh/6907135
【從聞而思,從思起修】(科註第975頁第5行) 《三藏法數》「三慧」條:〔出成實論〕

一、聞慧:聞慧者,由於聽聞而生智慧也。謂從經論中聞,或從善知識處聞,以因聞故,能生無漏聖慧也。
二、思慧:思慧者,由於思惟而生智慧也。謂若能思惟經論中及善知識處所聞法義,皆能生於無漏聖慧也。
三、修慧:修慧者,由於修習而生智慧也。謂既已聞法,思惟義趣,即當隨順修習,因此修習,能生無漏聖慧也。