マリア園を訪ねて その3

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長崎市の「マリア園」について今まで2度書きましたが

(過去記事はこちら。マリア園を訪ねて その1 その2

第3弾をお届けしようと思います。

 

というのも昨年8月、東京都港区の“森ビル”で有名な企業が

買収し、高級ホテルを開業予定と報道されたからです。

長崎市の観光地に近く、明治の面影を遺す巨大な洋館という特長が、

すでに東京へ誘致したシャングリ・ラ ホテルやコンラッドに

匹敵する魅力と評価されたのでしょうか。

 

19世紀にシスターが集い、後に児童養護施設となったマリア園が

2020年代ラグジュアリーホテルへ変身するという運命には

多少のショックを禁じ得ません。

 

改装前の写真を残したいと思い、訪れた元旦。

玄関階段の左右に門松、2階の窓に純白のミカエルが見えるでしょ。

大天使ミカエルは武具を着て剣で悪魔を倒す姿がよく描かれ、

世界的にはフランスのモン・サン=ミシェル修道院の黄金像が有名です。

マリア園のミカエル像は、同じ長崎市南山手に建つ大浦天主堂(国宝)の

司教だったプティジャンが寄贈したものだそうですが

・・・プティジャンって誰?

 

 

カトリック長崎大司教区が複製した当時の写真を

掲載しますので、あわせてご覧ください。

 

プティジャンが司祭として来日した幕末、

日本では安土桃山時代に始まったキリスト教禁止令が

強化され、違反者は棄教を迫られ、拷問を受けた時代でした。

ですから、長崎で大浦天主堂の建築が許可されたのも

あくまで居留区のフランス人対象の教会としてでした。

 

1868年に司祭から司教にステップアップしたプティジャン、

実は3年前に日本人「ゆり」さんとの驚きの出会いがありました。

※江戸時代、姓を持つのは特権階級の人に限られました。

ゆりさんが杉本姓を名乗るのも後になってからです。
 

 

 

『ワレラノムネ アナタノムネト オナジ』

 

胸はサイズではなく、信仰を意味します。

 

1865年、見学者を装って教会を訪れた浦上村の農民たちは、

プティジャンを質問責めにしました。大浦天主堂を“幕府の罠”

と警戒する隠れキリシタンもいたからです。

その中の一人ゆりさんがとうとう信仰を告白しました、

「ワレラノムネ」とはその時の言葉です。

 

約250年間、指導する司祭もおらず、教会もなかった日本で

信徒が発見されたというニュースは、密かにローマへ伝わり

カトリックの総本山バチカンは喜びに沸いたそうです。

 

しかし、悲劇が待っていました。

 

※写真の銀のコイン状のものは、日本の信徒発見150周年を

記念したメダイ(信者さんは“御メダイ”と呼ぶ)です。

 

 

 

舞台を、大浦天主堂から移します。

大浦天主堂を正面に見て右側の細い坂道、グラバー通りを進めば

マリア園に行けます。たったの500メートル。

ところが大変!一部が歩行者専用道路になっており

クルマではこのルートが使えません。

(どうしても行きたきゃナビ使って・笑)

 

写真をご覧ください。左側に見える上り坂が

大浦天主堂から続くグラバー通りです。

このあたりまで来るとクルマも通れるけど、離合が厳しくて^^;

通りからさりげなく右に枝分かれする小道が、

立派な門を通りマリア園の正面玄関へ導いてくれます。

 

 

 

明治維新は、本当に日本の夜明けだったのでしょうか?

光あるところに、闇あり。

 

信徒発見から、禁教令が解かれる1873年まで、明治政府により

新たに3千人以上が迫害され、数百人が亡くなりました。

 

激変する社会情勢に大人達さえ振り回されていた時、

親を失くした子たちは暗闇にいたかも知れません。

 

プティジャンは、社会福祉を行う幼きイエズス修道会こと、

フランスの“ショファイユの幼きイエズス修道会”へ

シスターの日本派遣を要請します。

ここに彼女たちの本部があったのです。

 

(つづく)

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