今日のエントリは娘(19)とちび(8)にだけ読んでもらいたいので、ハッシュタグはつけない。
全体的に宗教がかった話になるので、気楽に聞いてほしい。
ちなみにとうちゃんは有神論者で神の存在を認めてはいるが、そこいらの銭ゲバ宗教が大嫌いな神道家である。(形式ばかり重んじる神道十三派も神社庁も嫌いだから、神道家といっても古神道や古代アニミズム信奉者になるのかも)
さて。この社会には、いろいろな人間がいる。
まともな人間も、まともでない人間も、素敵な人間も、ゴミみたいな人間も、ほれぼれするような人間も、絶対にああなりたくないと思わせてくれる人間も。
これらの千差万別性は、神がそれを望み、許しているから存在する。
神という言葉が宗教臭くてかなわんのなら、宇宙や自然と言い換えてもいい。
もし宇宙がこの世に聖人君子の存在だけを望んでいるのであれば、ゴミクズのような犯罪者やキチガイはとっくの昔に淘汰されて消滅しているはずである。
だが、そうではないのだから、これには理由があるのだ。
これからそういった連中について語るが、全否定をしてはいけない。
全否定はしないが、先に結論を言っておくと、
因業持ちには近づくな
である。
パチンカスやスロカス、アル中、性犯罪者などの人間未満のキチガイはもちろん、先天性遺伝を持って生まれてきたガイガイ(精神障害者)達も、過去からの因業を断ち切らずにずっと持ち続けてきた存在だ。
「キチガイやガイガイと仲良くしましょう」なんて偽善的発言を平然と強いてくるインクルーシブ人権主義者は無視していい。
あんなのは、それが好きなあいつらに勝手にやらせておけばいい。
俺達はあれらには近づいてはいけないし、手を差し伸べる必要もない。
以下のように、たぬかな氏が言っていた言葉が正論である。
(上記のスクショは以下の本記事内より転載)
たぬかな氏が述べているように、アル中のキチガイや性犯罪者のキチガイや生まれついてのガイガイの救済は公金チューチューNPOの偽善者どもに任せておけばいい。
俺達は彼らのために何もしなくていい。
それでも連中に絡まれてしまった時は、宇宙(自然)が「お前、そいつと絡めや」と望んでいるのだから、前向きに絡むしかない。
だが日々正法を行じ、敬神崇祖の念を忘れず、清明正直に生きていれば、足にまとわりつく水子のような因縁持ちと縁を結ぶようなこともないはず。
そう。
この世のすべては縁なのだ。
障害者が産まれるのも縁だし、育てた子供がニートになるのも縁。
その前のステップである結婚も縁。DV旦那と一緒になったのも縁だし、やりまんクソビッチを嫁にしてしまったのも縁。
もっと言えば過去世の因縁、因業である。
丁寧に育てたはずの子供が東大を出てこどおじになってしまい生き地獄を見るのも、自分がいくら女磨きをして婚活しても相手が見つからないのも、過去世の因縁が絡んでいる。
こんな話をすると、そこいらの連中は鼻で嗤う。
だが、こんなシンプルなことすら理解できないほど、最近の人間は脳みそが腐ってしまっている。
自らが過去、毒の種をまいたから、毒の芽が出、毒の花が咲き、毒の実がなった。
それらを収穫して食べるのは自分自身だし、当然中毒になって悶絶する。
世の中の不幸者どもは、そこがわかっていない。
周囲の幸せ者を羨ましそうに眺めては「自分も幸せになれるはずなのに」「なんで自分だけがこんな目に」と怨嗟の悲鳴だけは一人前に上げるが、自分が犯してきた罪に気づくこともなければ、宇宙に対してそれを詫びることもない。
そんな存在を、宗教で語られる神と呼ばれる存在は、憐れみながらご覧になっておられるだろう。
「まだ気づかぬか」
「ならばもっとゴシゴシ磨いて汚れを落としてやらねばならぬのう」
「なのにこやつは痛い痛いと文句ばかり言いおる」
「身から出た錆を落としてやろうとしているのに」
「ますます不平不満の汚れで汚くなりおる」
「ならばもっとゴシゴシ洗ってやろうかの」
俺が言うと失礼なのだが、神の思いは実はひどく単純であり、神は、神の子である我々人類を成長させたいのだ。
だから簡単には乗り越えられない苦難のハードルを人生の途中に次々と用意し、「ほれ! 飛ばんか!」と尻を叩いてくる。
そこで尻込みをしたり、敵前逃亡して引きこもったりしたら、それは神のオファーを足蹴にしたことになり、魂の汚れとなる。
もちろん悪いことを考えたり、それを実行したりして、人を騙したり悲しませれば、それはもっとひどい魂の汚れとなる。
神はそれらを許さず、人間が自分の勝手な判断で魂を汚した分はゴシゴシ洗濯して元に戻すことを要求される。
そのゴシゴシが、我々が一般的に言っている『不幸』と呼ばれるものなのだ。
世間の連中は、車を運転していて事故に遇うのは偶然だと思っている。
だが、それは神のゴシゴシであり、そこで命を取られるような人間は、相当に汚れがたまっていたとも言える。
何度も何度も洗濯していたら、とうとう破けてしまった衣類のように。
もちろん死というものはそれだけではなく、逆に救いの死というものもあるのだが、ここでそれらを簡単に述べることは難しいのでやめておく。
だが、どちらにせよ我々が言う『不幸』が神のゴシゴシであることは間違いない。
能登地震でも「あんな真面目で良い人が死んでしまった。神も仏もない」と言う者がいるが、それは浅知である。
「真面目で良い人」なのは近所の人間から見た姿であり、神々から見たらそうではなかったのかもしれない。
こればかりは人間にはわからないことなので仕方ないが、ひとつはっきりと言えることは、ゴシゴシされて文句を垂れると、もっとゴシゴシされるということだ。
軽いゴシゴシできれいになって「ありがとうございます」と言えれば、それでいい。
なのに、そこで不平不満を抱き、「なんでこんな目に遇うんだよクソ! 神も仏もねえな!」なんて思うと、もっと力を入れた、もっと痛いゴシゴシが来る。
しかも、何度も何度も。
なんではっきり断言できるかって?
とうちゃんの実体験だからだよ。
若い頃は、自分で自分を不幸にしていた。
不平不満や文句ばっかり言ってはゴシゴシを食らい、それに対してもっと不平不満と文句を言って強烈なゴシゴシを食らい、最後は泣きながらもっとひどい悪態をついて壊滅的なゴシゴシを食らい、それでもまだ目が覚めなかった。
それが間違いだとわかるようになったのは、30歳を過ぎてからだった。
だから、世の中の9割が、そんな生き方をして次々と自ら不幸を招き入れているのは仕方がない。
幼いころから神を探し、生きている意味を探してさまよってきたとうちゃんですら、30歳を過ぎなければ悟れなかったのに、最初から「神などいるわけねえだろ」と思っている人間がそう簡単に悟れるわけがない。
とうちゃんが「世の中の9割は馬鹿である」と言う根拠のひとつがこれで、人々はもっと真剣にこの宇宙の仕組みを学ぶべきじゃないかと思う。
だが、神々に言わせれば「理解できる者がすべてにあらず。無用の者も作りしなり」ということだそうなので、とうちゃんの言うことを鼻で嗤ったり、バカにするような連中も、永遠にこの世からなくなることはない。
「神は人がつくった」「神などいない」「神はそれぞれの心の中にいる」「神がいればもっとまともな世の中になってるはずだ」などと勝手なことを言う。
何もわかってないのだ。
だからそういう連中は徹底的に無視していい。
ニーチェでも読ませて、知った顔をさせておけばいいのだ。
下のニュースなどはまさに、神々のゴシゴシの一例である。
これは昔の諺で言うと「親の因果が子に報い」というやつだ。
親といっても直接の親ではなく、その先祖の誰かの後始末であるケースも多い。
たとえばAという家にガイガイが生まれ、そいつが50過ぎてもこどおじニートを続けて親の年金を食いつぶしているのは、そのAという家の何代か前の先祖が何かしら宇宙に対しての罪を積み、その後訪れたゴシゴシを嫌がって不満ばかり言っては逃げ回っていたため、罪をきれいにするための借金が先代の時に返しきれず、むしろ利子が膨れ上がった状態で子孫に残ってしまった例である。
上の例の中高年ニートの産業廃棄物どもは、現界的に見れば親に甘えに甘えまくって自分では何一つ成長のための努力をせず、何かあれば「生んでくれなんてこっちは頼んでない」「お前らが勝手に生んだんだろ責任取れ」とわめくしかできない統合失調症なのだろうが、実は本人だけの問題ではない。
その両親、そのまた両親、先祖、遠い先祖の因業が今の今まで完済されずに残り、それを清算させられているのだ。
だからこそ、以下の記事につながる。
現界的に見れば障害者も人間なので人権はあるわけだし、障害者同士が結婚して子供を産んでも、誰にもそれを止める権利はない。
だが、ここまで述べてきた話を理解できれば、上の障害者夫婦が過去世に生じた因業に踊らされたまま、なんの昇華も努力も改心もせず、過去からの因縁から逃れられずに因果の車輪の中をハムスターのようにぐるぐると回っているだけだけということはわかるだろう。
だが、彼らに対して「子供を産むな」というのは正解ではない。それが正しいか間違っているのかは我々ではなく宇宙が決めることだから。
ただ、彼らは考えようとしない。
なぜ自分がこんな姿で生まれてしまったのか。
なぜ自分達が社会の中でこれほどのバッシングを受けなければならないのか。
それに気づき、間違いを正す行動が起こせなければ、親の因果は子に報い、永遠の連鎖を断ち切ることもできずに障害者の遺伝子と、汚れた因業だけが残り続ける。
そしていずれは子孫が理不尽に殺されたり、病気で死んだり、事故死したりして全滅し、強制的にロスカットされるのだ。
宇宙には個人用の通帳が存在すると聞く。
そしてそこには、ひとりひとりの罪と徳が記載されていると聞く。
「天網恢恢疎にして漏らさず」という言葉どおり、我々がしたこと、言ったこと、思ったことは、全て通帳に記入される。
悪いことをすれば、いずれは強制ゴシゴシで返済を強制される。
だったら最初から悪いことをしなければいい。
不平不満を言わなければいい。
感謝をするほうがいい。
大宇宙に対して。
変なスピリチュアルは信じなくてもいい。
純粋に、素直に、自分のまわりにある時空間と、そこに存在する自然に感謝をすればいいのだ。
それだけで不幸は目に見えて減る。
それでも勉強不足なため、小さなゴシゴシは食らうこともあるだろう。
それは人間として生きている限り、仕方がない。
帰ろうとしたら上司につかまってしまい、目の前でバスが行ってしまうような現象に見舞われても、それは小さなゴシゴシなのだ。
「ああ、これは歩けってことなんだな」とポジティブに受け止め、感謝して歩けば、いいことがあるかもしれない。
100円玉を拾うかもしれないし、素敵なあの人に遇えるかもしれない。
というわけで、今日は生きる上でのもっとも基本的な考え方を伝えた。
いいことが起きたら感謝。
わるいこと(ゴシゴシ)が起きても感謝。
ゴシゴシが辛くてどうしようもない時は、家族で支え合う。
そうやって家族で協力してお家の因縁を消し、家相を浄化する。
そうすれば不幸に遇わない人生は築ける。
この一番のポイントは、家相を浄化することで不幸の少なくなった家が、我々だけのもので終わらないという点だ。
いずれ君達の子供として君達の家に生まれてくる子孫にも、浄化された幸福はきちんと相続されるのだ。
よく、事故に遇っても死ななかったり、危機一髪で災害から逃れた奇跡の人に対して「前世で惑星を3つくらい救ったんじゃないの?」なんて言うことがあるけど、あれは本当のこと。
その魂が過去において積善を続けてきたからこそ、先祖が徳を積み、罪を消してくれた清浄な善相の家に生まれることを許されたのだ。
我々が生きている理由のひとつにもなるのだが、過去において自分の先祖が犯した罪を消して家相を浄化することこそが、子孫が平和に繁栄できる家を築くための唯一の方法である。
だから親ガチャなんて言葉を使っているやつはバカの最高峰。
てめえがどうしてそんなひどい毒親の下に生まれてしまったのか、それが自分の因業であることに気づきもせず「ガチャが外れた」と他責するしか能がない。
いえいえ。
過去世において善徳を積んで生きてきた清廉な魂は、ちゃんと良い親の下に生まれ、美味しいものをおなか一杯食べさせてもらい、そこそこの自由と教育を与えてもらいつつ、日々を笑顔で楽しく生きているよ。決して金持ちじゃなくてもね。
そういう家に生まれることを許された赤ん坊は、たまたまガチャが当たったわけじゃなくて、過去に積んだ善徳の配当金をもらっているだけのことに過ぎない。
だから人生は面白い。
無知蒙昧なくせに自分では小利口だと勘違いし、いくら屁理屈を並べようと思い通りに行かず、それでも小さい脳みそであれこれ考えては、どんどん正しい道から外れていく。そして神をバカにし、逆恨みし、更に転落していく。自業自得の極み。
そういう下々の愚者どもの足掻きを、憐憫を込めて安全地帯から眺めるのも、また人生の一興と言える。
人として生まれることを許されたからには、愛する人と結婚し、かわいい子をなし、育て、自ら親として成長しつつ、年を取って朽ち果てたら成長した子供達に看取られて死ぬという、人間の王道とも呼べる大安心の人生を送りたいものである。
マスゴミや一部の自称有識者が振り回す、生涯未婚や同性婚の肯定、セカンドパートナーや不倫の容認、行き過ぎた多様化の受容などは、全て自然に逆らって小賢しい人間の頭から出たものにすぎない。
これらの猿知恵で生み出された理屈が、宇宙や自然と迎合することは未来永劫なく、いずれはそういう主義を信奉する連中は滅びていくだろう。
ま、日々、耳にうるさいとは思うが、あれらは車に轢かれた犬の断末魔の悲鳴に過ぎないと思って聞き流しておきなさい。
連中がそういうポリシーに頑なにしがみついて生きていることすら、自らが因業持ちであることの証明なのだから。