先週からうつ病を再発しかけて「死にたい」「生きているのが面倒くさい」と思っていたが、どうやら元に戻ったようだ。

で、今日もオーバーナイト透析なのだが、その前にちょっと思うことがあったので、会社の昼休みを使って書いてみる。

 

嫁ちゃんはわかっているからいいとしても、子供達はきちんと読み、とうちゃんが何を考えて終活しているか、また君達がどのような人生の終焉を迎えるべきか、きちんと理解してほしい。


 

 

 

 

まずは上の記事。

 

理不尽でも何でもない。

 

そもそも、昨今の老人は年を取ったらホームに入るのが当然のような風潮になっているけど、これ自体からして大きな間違い。

 

そもそも、まともな老人は年を取ってもホームに入らない。

 

きちんと家庭を築き、仕事をして家族を養い、家族からの信頼を受け、彼らの人生を背負い、父として男として社会に立ち向かってきた老人なら。

 

または、慈母の愛で家族を癒し、家を守り、際限も名もない家事に忙殺されつつも、常に家族の畏敬の念と感謝を受け続け、母として彼らを守り育ててきた老婆なら。

 

子供達から厄介払いをされ、ホームへ投げ込まれる筋はない。


なのになぜ、多くの老人はホームに投げ込まれるのか。

 

厄介だから。

 

父としても、母としても、家族としても、機能不全な生き方をしてきたから。

 

諸般の事情もあるだろうが、本当に父母を敬愛する子は、父母を施設に入れないよう手を打つ。

 

だが、それらのケースは相対的に少ないと聞く。

 

なぜか。

 

子の事情以上に「面倒見てやりたいと思えない父母」が多いのだ。

 

彼ら老害は、その人生が満足であれ不満足であれ、自分の意志で好き勝手に、自分のスタイルのまま耳を貸さず、その年まで生きてきた。

 

そして今さら「あの頃に戻りたい、やり直したい」と思ったところで、それは不可能なのだ。

 

時は帰らない。

 

やってきたこと、生きてきたことは、戻せない。

 

そうなってからでは、遅いのだ。

 

そして社会には、俺達には、そんな連中を必死で救う義務も必要性もない。

 

本来は、死にゆくだけの存在に手厚い保障など不要なのだ。

 

(それでも保障があるのは政治的判断のため、得票数確保のため、老害は票田)

 

だからこれからの未来に生きる若者は、金などなくてもいいから家族を持て、子供を生め、と言っている。

 

自分の分身とも言えるような味方を作り、社会に対して防衛陣を張る。

 

そのために一番強力な結びつきが家族だと、これは前にも書いた。

 

徳川家が親藩と譜代を大切にし、外様を冷遇したのもそういう理由からである。

 

ただ、せっかく家族を作ったのに、以下の漫画で語られる父親・旦那のような傲慢な家庭人の皮をかぶったヒトラーになってはならない。

 

昭和の時代には本当にこういうクズオヤジが多かったが、俺はこういうオヤジやジジイを反面教師として生きてきたおかげで助かっている。

 

もちろん俺の父も、嫁ちゃんの父も、こんなクズではなかったが、こういうクズが定年離婚後に独居老人として誰にも看取ってもらえず悲惨な人生の最期を迎える運命の采配は、むしろ痛快ですらある。

 

 

ざまあみろ。

 

 

 

 

というわけで、幸いにして俺は素晴らしい家族を持てた。

 

素敵な嫁ちゃんと賢くて可愛い子供達を授かった。

 

この点は家族のみんなに感謝したい。

 

だから俺はホームにぶち込まれる確率は少ないと思う。(だよな?)

 

もちろん家族を作っても、それが家族ごっこの家族であれば、容赦なく「親父の世話は面倒だからホームに入れちまおう」と息子達に言われることもあるだろうが、幸いにしてうちの子はそうではない。(だよな?)


仮にホームに入れようとしても、そもそもホームに入るだけの金は準備できないし、仮に準備できたとしても、そんな大金を死にぞこないの末路に散財することの愚かさは、親も子も双方が熟知している。(だよな?)


だから俺自身がホームに入ることはない。(だよな?)

と、こんなふうに、ホームに入ることは当たり前じゃないはずなのに、なぜマスコミや自称有識者はホームへ入ることを当たり前のように語る。

 

それは、この国が救いようもなく間違ってしまい、間違った生き方をしてきた老人をこの世からあの世へ送り出すには、若者の労働力を犠牲にした老人ホームという名の「名目はケア、本当は処理」をする場所が必要だからだ。


本来なら自分の家で、畳の上で、家族に看取られて逝くべきだ。

 

なのにそれができないこの社会は、明らかにおかしい。

 

社会そのものが、人間の生き方そのものが、明らかに間違っている。

その上、それに飽き足らず、「死ぬまで賃貸暮らしをする方が効率的だ」などという馬鹿な意見も最近ではよく目にする。

よく考えてほしい。
 

年を取るとアパートの部屋は貸してもらえない。

 

マンションなんかもってのほかだ。

 

それは貸す側からしてみれば当たり前のことで、いつ死ぬかわからん独り身、またはジジイとババアのろくに動けないお荷物人間のセットを、地主や大家が快く受け入れるメリットは何もないからだ。

 

仮に貸してもらえたとしても、その生活は想像を絶する悲惨さだ。

 

 

そしてやつらはいずれ死ぬ。

 

誰にも気づかれずに。

 

どこかでスズメが一羽電線から落ちて死んでも誰も気づかないのと同じだ。

 

そして床板には、孤独死によって発見されるまで手間がかかった分、体液がたっぷり染み込む。

 

異臭もすごい。

 

それを見た大家が自分の髪をつかんで絶叫するのは目に見えている。

 

フローリングを剥がして床全部を施工し直す手間と金を考えたら、誰が死にそうな老人に部屋を貸す?

 

だから老人は部屋を借りられない。

 

つまるところホームに入るしかないのだ。

 

だが、金がないとホームには入れない。

 

サービスの悪い、それこそ虐待専門の介護士しかいない低レベルな公共施設にしか入れない。

 

そんな先を見越して、俺と嫁ちゃんは、今の持ち家をローン購入した。

家族で楽しく豊かな生活を営む目的ももちろんあった。

 

芝を張った庭で娘(6)がパターゴルフの真似事をしたり、反対に庭一面をサツマイモ畑にして秋に芋堀りをしたのも、今ではいい思い出となっている。

 

だが、子供達よ。

 

いつの日かわからないが、君達が巣立った後は、俺と嫁ちゃんの終の棲家となる。

 

誰にも邪魔されず、文句も言われず、年に数回の安価な固定資産税を払うだけで、そこに暮らしてよい権利が生じるのだ。

 

なのに賃貸派は目先のことしか考えておらず、「持ち家をローンで買うなんて馬鹿のすること」「災害が起きた時に逃げられない」なんてディスってくるが、別にディスりたければいくらでもディスればいい。

やつらに対しては、「ヨボヨボの80過ぎになってもタワマン生活を満喫できればいいですね。80階行きの高速エレベータを10分掛けて待つ生活が苦痛でなければ」としか思わない。

まあ、人間の価値観はみんな違うので、勝手に思わせておけばいいのだが。

どちらにせよ俺と嫁ちゃんは、この片田舎の、日当たり抜群の、小さな庭と駐車場2台つきの、隣が畑の、市街化調整区域に建てられた、完全注文住宅である我が家に住み続け、そこで死ぬことになるのだろう。

もうじきローンも終わるし、そうなれば晴れて今の家は俺と嫁ちゃんのもの。

だから家は買っておくといい。

 

いや、家ではなく、土地を。

これからの未来、老人死亡率の上昇による人口淘汰と空き家の増加で住宅がどんどん余り始めるし、場所さえ間違えて選ばなければ、それほどの大金を準備しなくても、家と土地は手に入るだろう。

特に上物は500万ちょっとあればキットが買えるし、こっちのがいいかも。

 

 




さて。

 

奥さんをコケにして自己中心に生きてきた独居老人と賃貸派の悪口はこのくらいにして、自分事に戻る。

俺が死ぬ時の死因は何だろうか?

前に技師もっちーか誰かが教えてくれたことによれば、透析患者の死因は「1位は心不全、2位は感染症、3位は脳血管障害」だった気がする。

だから多分心不全か、風邪ひいて重症化するか、脳卒中やクモ膜下出血で死ぬのだろうと思う。

でも、死ぬ前に少しでも予兆があれば、娘とちび(7)よ、君達の手によって、近所の病院に放り込んでもらいたい。

俺の父母や、嫁ちゃんの父ちゃん母ちゃんがたどったように、病院で数週間から数か月の緩和ケアの後、病院のベッドの上で逝きたいのだ。

家で死ぬと司法解剖が入るし、それで肉体を切り刻まれるのは困る。

あの世に行くなら、必要以上に傷のない(とはいえ手術を何度かしていてすでに傷物だが)状態で行きたいものである。

余談になるが、投身自殺をして死んだ人間は、投身自殺をした瞬間の絶望感と地面に激突して体がバラバラになった時の痛みが、死んだ後も未来永劫続くと聞く。

電車に轢断されて死んだ人間は、何十トンもある列車の車輪で体を轢き潰される苦痛が、死んだ後も未来永劫続くと聞く。

海で溺死した人間は、息が吸えずに呼吸困難で苦しみながら息絶えた時の瞬間の苦痛を、未来永劫受けながら存在すると聞く。

まあ、それが嘘であっても、坊主のはったりでも構わないのだが、万が一そのような事実があった場合、俺はそんな苦しみに悶えながら死後も存在するのは嫌なので、できれば司法解剖は願い下げにしてほしい。

このためには、俺の容態がおかしくなったら、とにかくすぐに119で救急車を呼んでほしいのだ。

これを読んでいる嫁ちゃんをはじめ、娘とちび(7)はそのあたりを肝に銘じてほしい。

それから、入院した後も、絶対に延命措置はするな。

俺がこの世で受ける最後の医療行為は、今受けている人工透析だ。

熱さましの投薬や点滴くらいは受けてもいいが、エクモや人工心肺、生命維持装置などへの連結は断固として断る。

 

抗ガン治療も不要だ。

そこまでして生き続ける意味はない。

そして、それ以上に俺は、そのような状況下に至ったら、早くあっちの世界へ行きたい。

数多くのご先祖様にお会いして頭を下げ、子孫として不甲斐なかったことを許してもらい、先祖の一群に混ぜてもらったら、一緒に酒を酌み交わしながら子孫の繁栄を見守りたいのだ。

だから、死ぬ時が来たら死ぬ。

生に執着はしない。

きれいにあの世へ逝きたい。

 

俺のオヤジとオフクロ、嫁ちゃんの父っつあんと母ちゃんがしたように。

(↓こういう漫画に乗せられてバカな人生を歩まないように)

 

人は一人では生きられないし、一人でも死ねねーんだよ。浅慮。



 

最後に、実際の老人介護現場で起きていることについて言及しておく。

 

最近は介護現場でのスタッフの疲弊に伴う不幸な事件や事故が多い。

これは当然と言えば当然のことだと思うだろ?

そもそも老害どもは「金を出せば何でも思い通りになる」と思っている。

 

コンビニで店員に八つ当たりするクズ老害を見ていればわかるだろ?

 

 

だから介護現場では老人虐待が多く発生する。

 

もちろん全員がそうではないが、ほとんどの老害は若者から嫌われており、金を出すから渋々相手にされているような連中ばかり。

本当に愛されている老人には、きちんと子や孫がいて、それら多くの子孫に愛され、囲まれ、労わられながら幸せな余生を過ごしているはずだ。
 

SF映画『インターステラー』を見たか?

 

インターステラー の映画情報 - Yahoo!映画

 

以下ネタバレするが、この映画は難しいので一度見てもよくわからないこともあり、ネタバレは許してもらいたい。

 

あの映画のラスト少し手前でブラックホールに落ちこみ、四次元空間を通過して土星のステーションで目覚めた主人公クーパーは、自分が地球に置いてきた娘のマーフと再会する。

 

ステーションの病床に横たわっていた臨終のマーフは、父クーパーよりも遥かに年を取っていた。

 

クーパーが宇宙へ飛び立つ前、最後に会った時には10歳だった娘のマーフは、今では80歳を超える老婆となっており、多くの子や孫に囲まれながらステーションのベッドの上で父を待っていた。

 

このシーンは何度見ても泣けるが、同時に俺は、これが本来の人としての正しい死の瞬間だと思っている。

 

自らが子をなし、子が子をなすことで孫が生まれ、それらの多くが、血を伝えてくれた祖母に感謝と畏敬の念を伝えながら病床を見舞う。

 

これこそが、人の死ぬ時の真の姿ではないか?

 

だが気の毒に、今すでに独居老人となってしまった連中には望むべくもない。

 

そして彼らを今さら救うすべもない。

 

それは四次元空間から脱出して土星のステーションで目覚めたクーパーが、10代の娘だったマーフにもう一度会おうとしても無理である理由と同じだ。

 

クーパーが宇宙でミッションに携わっていた間、時は無情にも流れた。

 

アインシュタインの相対性理論によってクーパーの時間の進み方は遅かったが、地球上では否応なく時間が流れ過ぎ去った。

 

クーパーが30代のまま探査から戻った時、娘のマーフは10歳から80代へと70年の人生を旅していたのだ。

マーフは人生の最後で父(しかも若い頃の)と再会し、多くの子孫に看取られながらこの世を去った。

 

それは幸せな死である。

 

この「幸せな死」を、人として生きる最後の瞬間に受け取れるようになるためには、生きていく上で何が必要なのだろう?


介護が必要になった時、「悪いが面倒見られないんでホームに入ってもらうよ。金で他人に父ちゃんまたは母ちゃんの面倒を丸投げするから」と子供達に言われてしまったら、もうそれを手に入れることはできない。

 

何かがズレた。

 

だから子供が「施設に入れる」という選択をせざるを得ないのだ。


そして更に悪いことには、そんな老人の世話をする介護職員の若者の心の奥底に何があるかを、大人社会の誰もが正直に言わない。

新聞も週刊誌もテレビニュースも、美談化して描く。

 

嘘つきどもめ。

誰が好きでどこの馬の骨とも知れないジジイやババアのシモの世話をするか。

老人どもよ、お前らが若かったら喜んでするのか?

しないだろ?

つまり介護士というのは、精神的にギリギリの状態か、他に職がなくて仕方なくか、どこまで保つかしれぬ崇高な犠牲的精神に基づいて職務に臨んでいるのであり、決して世話をするジジイやババアが好きなわけじゃない。

もっと端的に言えば、金のために働いているに過ぎない。

(一応書いておくと、知り合いの介護士はみんな上のようなことを言ってたから、あながち間違ってもいないのではないか)

しかも低賃金で、自分の生活を立てるのがやっとのため、虐待によるストレス発散は当然の結末とも言える。

その因果関係をマスコミも政府も指摘しない。

若者の労働力をあたかも自分達のケアのために無尽蔵に使用していいかの如く勘違いをし、勘違いをさせ、安月給とパワハラでこき使っている。

だから俺は、俺の子供である君達はもちろん、知っている若者には絶対に介護士になるなと厳しく言っている。

あれは現代の奴隷だ。

社会の役に立たなくなった老害どもにひれ伏し、彼らの欲求を満足させるためだけの若き奴隷に過ぎない。

ひどいケースになると、無料風俗と勘違いしているジジイもいる。

 

 

地獄行き確定だろ、こんなジジイ。

俺はこの国の若者を、こんなクズどもの奴隷として育てたくはない。

一人でも多くの若者に、老人などはケアしなくてもいずれ勝手にくたばるのだから放っておいていいという真実を伝えたい。

それよりも、社会基盤の再構成に力を使い、頭を使ってもらいたい。

このまま少子化が進んで労働力が減少すれば、田舎の道路や水門、あぜ道や林道などはおろか、銀行システムやスーパーマーケット、もっと基本的な送電線や上下水道などのインフラも整備できなくなる。

そのような土地は、住んでいる老人ごと滅びればよいが、諸君ら若者はその時に何をしているべきか。

 

もう、明治、大正、昭和、平成の価値観ではダメなのだ。


地球規模で張り巡らされたネットワークと、昨今ChatGPTのように庶民レベルに落ちて来たA.I.のパワーを使い、新しい社会と価値観とシステムを創設するための学習に励むべきなのだ。

令和の世こそ、若者が寝たきり老人のうんこの世話をしている場合ではない。







俺は70を前にして死ぬつもりでいる。

 

その一番大きな理由としては、惰性で生きたくないから。

年寄りの多くは、口を開けば「お迎えに来てもらいたい」と言う。

だがそういう人間に限って、生き続けるという罰を受け続けている。

死にたくても死なせてもらえない。

なぜか?

命を十全に燃やし尽くしていないからだろう。

この世に生まれてきた目的を果たしていないからだろう。

それは子育てかもしれないし、仕事かもしれない。

地域貢献かもしれないし、クリエイティブな作業なのかもしれない。

悟ることなのかもしれないし、恥じることなのかもしれない。

それぞれの魂には全て目的が与えられ、この世に降下させられたと聞く。

その目的を達成したら、死を許されるのだとか。

だから俺は70を過ぎて体も頭も腐りかけた状態になりながらも社会のお荷物として生きるつもりはないし、若者達の怨嗟の的になるつもりもない。

己が契約した目的を為し得たら、さっさと死なせてもらいたいと本気で考えている。

今回も、重度の尿毒症と末期腎不全で死ねるかと思ったが、適切な人工透析によって以前以上に元気になってしまった。

 

しかも役職が上がって仕事も責任が増え、業務範囲も収入も増えた。

おかしい。

 

これはどう考えてもおかしい。

 

カミサマよ。

 

俺はあの時、死ぬはずだったんじゃないのか?

10年前の大動脈解離の時も。

20年前の腎臓がんの時も。

これで終わりかと思ったが、そうではなかった。

まだまだこの世でやらねばならぬことがあるらしい。

時にはうつ病という死神のささやきが聞こえてくることもあるが、結局は周囲の力によって立ち直ることになる。

 

いや、立ち直らせられてしまう。

まだ死んではならない、と言われているようだ。


だったらもう少し生きてやるさ。
 

69歳にして名盤を世に送り出したK.K.Downingを見倣い、君ら若い世代に何を残してやれるか、それを考えながら。

 

そして今日から、また元気に前向きに透析に通うのである。

 

(早く2枚目のアルバムをリリースしてくださいよ~待ってるんですよ~)