1/29の日曜日。

今日は家族揃って1日ボランティアをしていたので、ここに書くことはない。書く価値のありそうなこともいくつか見聞きしたが、書く必要はないので書かない。

一般公開できずに限定記事にするくらいなら、そもそも書かない方がマシ。

 

他人のブログを読んでいて、メンバー限定記事が挟まってくると、途端に興ざめして二度と読まなくなる。

 

あんなもんをわざわざ申請してまで読みたくはない。

 

ファンクラブの連中と、せいぜい内輪ネタで楽しんでいればいい。


……おっと。

 

最近、他人様の人生をとやかく言うエントリが増えてしまい、ある部分では反省しているよ。

人の悪口を言ったところで、そいつがくたばってくれるわけでもないし、自分の人生がより一層素敵なものになるわけでもないから。

だが、今までここで何度も書いているように、このブログの意義は、透析を開始した父である俺が何を考えて生きているかを、嫁ちゃんをはじめとする子供達=合計3人の読者に対してストレートに伝えるところにあり、それ以外の意味はない。

 

だから、4人目以降のフォロワーさんの存在は申し訳ないが眼中になく、ランキングもアクセス数も見ちゃいない。


投稿時間をわざと過去に設定してアップしているのも、個々のハッシュタグの「新着」で先頭に表示されないよう、背後のページに埋もれさせるためである。

と、まあ、子供達へのメッセージとして書いているので、明らかにまずい生き方をしている他人様を(そんな資格はないのにも関わらず)堂々と批判否定するエントリも時には書かねばならない。

 

子供達に「父ちゃん、時代に日和ったか」と思われるのは困るし。


不倫、DV、アル中、ギャンブル、FX、ソシャゲ廃課金、ニート、老害、サイマーなどなど、ステレオタイプな「人としてやべえ生き方」を踏襲した結果、自分の掘った陥穽に落ち、おめでたくも、それを毎日ブログに綴っているやつもいる。

これは俺のような人の親にしてみれば大変ありがたいもので、過ちを犯し、そこから脱却する術を持たない愚者が何を考えて地べたを這いつくばりながら生きているのかを子供達に学ばせる時、最適な教材となる。

そして俺は訊く。

「こいつはこんなこと書いてるけど、お前はどう思う?」と。

娘はもう社会人なので、「他人の人生に興味はないけど、聞かれたので一応感想を言うと以下の通り」と一刀両断にぶった切ってくる。

ちび(7)はまだ小学校1年生だが、おかしな点については「おかしいと思う」とポイントを衝いてくる。「なんで、ごはんをかうおかねをへらして、おしに、おかねをつかうのかな? おなかすかないのかな?」みたいに。

 

まあ、これらのいくつかは、自分が成長して似たような境遇に陥りかけた時、はじめて理解することになるのだろう。

どちらにしても、他人のブログを読むことで、それを書いた他人の思考回路を知ることは、大変よい経験となる。

だから、不倫の経緯を丁寧に書いているようなブログはまだ読める方で、天気と挨拶しか書いていない、またはその日の除水量しか書いていない、食べたものの写真しか上がっていないようなブログは、読む価値がないどころか、そもそも存在する意味がないということも、彼らは理解している。


それが書いた本人の完全な自己満足に過ぎないということを、理解している。

 

(もちろん、ブログなんてそんなもんだし、それが悪いとは一言も言ってないよ)

だが、共通項として、彼らの使う日本語は総じて悲惨である。


「役不足」や「失笑」「煮詰まる」を逆の意味で使ったり、「確信犯」や「憮然」を別の意味で使ったり、「コミニュケーションとか」「シュミレーション」とか平気で誤表記したり、小中学校の日本語教育が明らかに終わっていないのにブログを書いている連中もたくさんいる。

話は逸れるが、ライブドアニュースのヘッドラインにも日本語の誤用が多く、あのニュースサイトを作成しているライターは多分半島人か大陸人に違いない。日本人ならあんな日本語は書かない。

 

ネットを見ていておかしな日本語に気づいたら、ちゃんと子供達に教える。「この使い方は誤用だから、しちゃダメだよ」と。

 

別に重箱の隅を楊枝でほじくる正義マンになっているつもりはない。

 

子供達には、できる限り、恥ずかしくない日本語を使ってもらいたいと思っているだけなのだ。

 

他人に指摘されるような誤用を平然と続けるのもみっともないし、無教養だと思われるのもシャクじゃん。


ともあれ、インターネット上にはゴミのような情報と、役に立ちそうな情報が玉石混交で存在しており、それを見抜く目を養うのは他ならぬ自分である。

役に立つ情報と立たない情報の分別を誰かに教えてもらって判断しているようでは、いつまで経っても自分視点のビジョンと、確固たる情報伝達チャンネルを持つことはできない。



で、やたら前振りが長かったが、ようやく今日のお題。

やまもといちろう氏というプロのブロガー(ライター)がいる。

れいわ代表の山本太郎氏とは別人である。念のため。

 

ご本人曰く、よく間違えられるらしいので、更に念のため。

俺がニフティサーブにいた頃から全身でリスペクトしているお方で、当時は切り込み隊長というハンドルで投稿されていたことから、俺は陰ながら彼のことをずっと「隊長」とお呼び申し上げている。

俺が私淑しているライターは2人いて、一人はスタパ齋藤氏、もうひとりがこのやまもといちろう氏である。

どちらもライターでありながら、エッセイストのマイスターでもある。

もちろん、俺ごときが及ぶところではないし、意識して真似てみようなどとも思っていない(真似らんねえ)のだが、この二人の文章は本当に好きである。

とくに隊長については、文体だけでなく、その考え方についてもリスペクトしているのだが、どのあたりをリスペクトしているのかというと、以下の点。


・ライターとしてトップクラスの文章力をお持ちであるため、文章がこなれており、安心して読むことができる。(日本語の使用ミスが皆無である)

・難しいことをそのまま書くのではなく、素人でも理解できるようなわかりやすい文章で、しかも常に冷静(ここ大事ね)な筆致で表現してくれる。

・文章のところどころにくすっと笑えるユーモアを織り交ぜてくる。ブラックユーモアの時もあり、そちらの場合は限りなく痛快である。


他にも隊長に対して個人的なリスペクトポイントは多々あるのだが、最近驚いたのは、誰が書いたのかわからない記事を面白く読ませてもらっていて「これって隊長の文章みたいで好きだなー」と思ったら、最後に隊長の署名があった。

 

もちろん大笑いした。


つまり、活字の並び方を見ただけで、それを隊長が書いたと感じられるほど、俺にとって隊長の文章は隊長の文章なのである。

また、川上〇生や堀江〇文など、俺がいけ好かないと思っている連中との訴訟経験があることからも、敵の敵は味方という親しみも感じられる。

彼の子育て教育論や、インターネットに対する古参の視点での私見など、客観的で論理的かつ、読む者に寄り添う文章の展開は大変ためになるので、機会があったら読んでみるとよい。

そういえば、初めてアメブロに来た時は、隊長のようなハイレベルなブロガーがたくさんいて、面白い記事をいっぱい読めるんだろうなーと思っていた。

 

今ではあの頃が懐かしい。

ゴミのようなエントリしか降ってこないアメトピはもう二度と読まないし、アフィに血眼の自称トップブロガーを全員集めたところで、隊長一人の敵にはなり得ない。

彼こそが、本物のプロのブロガーである。

 

(アメブロはそういう場所じゃない? うん、無知で失礼した)






隊長はプロなので、いろんな場所にいろんな記事を書きまくっておられるが、今日ここで紹介したいのは以下のサイト。

やまもといちろう 社会保障学入門9時限目
「人工透析患者を殺せ」論は想像力の欠如に他ならない


例の長谷川豊が吐いた暴論を客観的に評価することから始まるこの講座は、「なぜ国民皆保険制度が不公平に感じられるのか」という論点を経由して、最終的には「弱者切り捨ての思考は愚かしい。国民皆保険制度は維持しなければならない」というところまで展開されている。

この部分の隊長の記事の前半を要約してみると、

病気知らずで元気に働いている人間にとって毎月天引きされる保険料は腹立たしく、「元気な自分には関係ないのになー」という認識に陥りやすい。
 

そして話は進み、

老人になりたくてなる人間がいないように、病気になりたくてなる人間はいない。ラーメンばかり食べても全く病気をしない人は、ラーメンを食べ過ぎて体を壊して入院療養している人を羨ましいと思うだろうか?(そんなはずはない)

「老人や病人ばかりが公的扶助の対象になり、健康な人間や若者が扶助の対象にならないのは不公平だ」と考えるのは、単純にその人が現在健康で、困っていないからに他ならない。


となる。

まさにこれは至言であり、若き頃の俺の思考そのままだった。

図星を突かれた気がした。

若いうちは文句たらたら言いながら保険料を支払っていた。

「病院なんか行ってねえのに、何でこんなに高い金を毎月給料から引かれるんだよ」なんて言いながら。

その後、自分が病気になって理解した。

あの保険料を支払うシステムがなければ、自分の病気は全て実費で自己負担しなければならないということを。

だから今では思う。

この国民皆保険制度のシステムに感謝したいと。

自分が弱者となり、当事者・対象者とならねば、そのシステムの有難さは死んでもわからない。

そういう点からすれば、理解されない多くの人々の支払いによって成り立っているシステムであるとも言える。



国民皆保険制度とは少し離れるが、隊長の記事の後半にさりげなく語られている部分を引用してみる。

俺はこれを、隊長が人の人生についてお書きになったメッセージとして受け取った。

(以下引用)

私たち人間は生物です。生きるからには、いずれ死んでいきます。どう生きても死んでいくのが運命だとするならば、生きることで求められる使命は、その人ならではの生を実現することであろうと思います。

生まれつき欠陥がある人も、豊かな才能に恵まれた人も、おのおのの条件や環境で葛藤を抱き、思い悩み、何かを為し、ときとして結婚し、子供を育んでから、人生を全うします。社会を形成し、子供を産まなければ、生物としての人間社会は継続していきません。


簡単に言うと「人にはそれぞれの役割がある」ということじゃないかと思った。

子供を産み、社会を継続させるのは、その使命と能力を持った人間だけが行えばよいことであり、全員が強制されることではない。

それぞれの置かれた立場に応じて精一杯生きることが、本人に課せられた人生の意義であり、幸せに生きている他人の真似をすることがその人の人生の意味ではない。

どうやっても結婚できない人間は、結婚せずに一人で生きることを体験するために生まれてきたのかもしれない。

どうやっても子供が授からない夫婦は、子供を育てるという宿命を持たずに生まれてきたのかもしれない。

どうやっても生きられない病人は、短い人生の中で何かを悟り、それを他人に残すために生まれてきたのかもしれない。

人は、みな違う運命に導かれ、この世に生まれ落ちてきた。

だから他人の真似をしたり、羨望を抱いたり、気にしたり、張り合ったり、マウント取り合ったりすることは愚かしい。

自分の人生を見つめ直し、自分だけの道を生きる。

誰にも代わってもらえない、自分の人生を、自分の足で歩く。
 

それが、生きている理由ではないのか?

前にも言ったが、人生は不公平である。

何不自由ない裕福な家に生まれてきた五体満足なイケメンもいるのに、障害を持って生まれてきたり、不細工に生まれてきたり、貧乏な家に生まれてきたりする人もたくさんいる。

 

前世で惑星を3つくらい救ったのかと思えるような、神に愛される配牌を与えられて生まれてきた者もいれば、砲弾の飛び交う生き地獄のような国に生まれる人もいる。


どちらにしても。

 

スヌーピーの言葉にある通り、配られたカードで勝負するしかない。

そこから自分の人生の一歩目が始まる。

そこが自覚できていないということは、実は、自分の人生の一歩目すら踏み出していないということになる。

 

高度1メートルも登っておらず、山に足すら踏み入れていないのに、装備だけは一人前に準備して、知恵もつけて、「俺は山に登ってるんだ」と言っている。

 

だけど実は、山をぐんぐん登っている逞しい他人(成功者)の人生を眺めては、登ってみたい登山ルート(自分が理想としている人生)を空想し、布団の中で、山を登っている夢(努力を積んでいる夢)を見ているだけなのだ。

 

子供達よ、山ってのは、自分の足で登らねば意味がないぞ。

 

……と、元山岳会の父は偉そうに言ってみるのである。

 

ともあれ、隊長の記事を読んだだけで、ここまで思考を展開できるのだから、やはりプロのブロガーが執筆するエントリは次元が違うということでFA。