あー、あー、マイクのテスト中。
あー、今回は語るよ。
すげー長く、熱く語るよ。
面倒くせえと思った人は、回れ右してブラウザ閉じるべし。
日曜日。
今日はまたまた何もない休日なので、土曜日にできなかったお仏壇の掃除と、サイカブトのマット交換をした。
お昼には嫁ちゃんお得意のシーフードかた焼きそば(塩分1.6g、コスト200円、野菜もいっぱい取れる)をいただき、おなかいっぱい。
午後は娘は自分の机周りの片づけに2Fへ上がり、チビは元々しまじろうのチャレンジをするためだけに買い与えたFireHDを使って九九の暗記、嫁ちゃんはいつものように午後のお昼寝に入ったので、一人でパソコンをつけ、Yahooニュースなどのニュースサイトを眺めて過ごした。
俺は昭和の鉄道マニアなので、以下のようなニュースがあると、つい読んでしまう。
「フレッシュひたち」塗装復活! きかんしゃトーマスの新作(?)も 今週一週間の鉄道注目ニュース
俺「うわー、なんだこの電車!? だっせー! 誰がデザインしたんだ!? 誰でもいいけどひでーなー!」
常磐線沿線にお住まいの方には申し訳ないが、E657とE653のデザイン、これはないだろ。デザインしたやつが精神疾患持ちだと言われたら信じそうな、電車のデザインではない顔。いつからわが国では、こんなヘンテコなウナギが鉄路を疾駆するようになったんだ?
……なんて改めて思ったのだが、よく考えたら「JRのデザインはくそだせえ」という考えは、国鉄が分割民営化されてJRになってから、ずーっと思い続けていたことだった。
中央本線で言えば、JR東移管後の651から始まって、E259、E353などとひどいデザインが続き、極めつけ、キワモノとして生まれたのがE257。
これは東海道・伊東線を走っていた185の後釜として『踊り子』の運用に入れられたが、修善寺駅で185の代わりに見た時は「げげー」と声を上げてしまったくらいデザインがキモイ。
あんなサイボーグみたいな何考えているかわかんない顔の電車を「かっこいい」と思って製造したJRの脳みそは腐ってる。
近未来的、前衛的だと勘違いしてそんなデザインを採用し続けるズレた感覚は、駅名に高輪ゲートウェイと平然と命名する低レベルな思考回路と同一な部分から派生したのだろう。
平成を経て令和となり、真に職人と呼ばれるデザイナーやコピーライターは明らかにこの国から減っている。
素人に毛が生えた程度のアマチュアがYoutubeやPixiv、なろうなどで適当にファンを得てメジャーデビューし、したり顔をして大きなプロダクトに関わってはレベルの低いコンテンツという名の産廃を乱造しているゴミだらけの世の中。
俺の言うことが嘘だと思うなら、下の写真を見てみるがいい。
Kano鉄道局というサイトの国鉄月光型(581/583系)の写真
このごっぱーさんは、俺が国鉄形車両(というか日本の鉄道)において一番好きな車両である。
何が好きかって、デザイン。
485や183などと似ていて色が赤か青かの違いと言われればそうだが、それでもごっぱーさんには、よんはちごにない何かがある。
「それってあなたの感想ですよね」という声が聞こえるが、そうである。俺の感想である。だが、この月光型をE257と比べてみろ。(Wikiより転載)
わからんか?
ええ? わからないのか?
……わからない。
あっそ。ならいいや。
なら、これは?
同じKano鉄道局のキハ28/58系気動車の写真
いいでしょー?
気動車。
なんか、頑張って生きてます、って感じがしない?
日本の地方に生きる人々の人生を、そのまま体現したようなナリ。
何も感じない?
感じない?
あっそ。
ならいいや。
何も感じないなら、そういう連中はそれでいい。
俺は昭和の鉄道マニアであり、JRのダサいデザインをこれっぽっちも愛していない人間で、貴様らとは相容れない存在なのだよ、永遠に。(誰に向かって言ってんだ)
実際、俺は昨今の鉄道マニアが嫌いだ。
にわかがどうとかではなく、この令和の世に三脚もって鉄道写真を撮りに行く連中が嫌いだ。
嫌いな理由はいろいろあるが、まず一番に、鉄道に対する敬意がない。
もう一度言う。
鉄道に対する敬意がない。
ただ、おのれの欲望のままに、鉄道にまとわりつく。
その心境は、地下アイドルとハグしたくてコンサートに出かけるエロガキのそれ、そのままである。
水着撮影会やヌード撮影会に高価なカメラをぶら下げて集まるエロオヤジのそれ、そのままである。
コミケに行って雑誌も買わずにコスプレイヤーのパンチラを撮りまくる変態野郎のそれ、そのままである。
エロゲに出てくる萌えキャラに「●●た~ん、好きだあ~」と変な雄たけびを上げるキモデプピザ喪ヲタのそれ、そのままである。
鉄道をおのれの欲望の消化材として消耗し、鉄道そのものに対しても、鉄道を運用保守する人々に対しても、鉄道の周囲に暮らす住民に対しても、これっぽっちの敬意も遠慮も慎ましさも持たない。
鉄路の脇にでかいカメラを三脚に乗せて群れているキモオヤジどもを見ると、俺には連中が線路に向かってせ●ずりしているようにしか見えない。
どうしてあの連中はあんなに気持ち悪いのか?
敬意がないからである。
「だいすきなでんしゃあいてにお●にーしてるだけ」だからである。
だから俺は、自分が鉄道マニアだということは公言しない。
内田百閒の阿房列車から始まった阿川弘之や宮脇俊三などの紀行作家の著書はほぼすべて所蔵し、自分でも北から南まで様々な鉄道に乗り、鉄道の全てを愛していた自分としては、線路に向かって立小便をするがごとく写真を撮るだけの輩と一緒にされるのは不本意だと強く思っている。
小学時代に父から買ってもらった竹島紀元氏の鉄道写真集に衝撃を受け、「こんな写真を撮ることを人生の生業としている人もいるのか!」と驚いた上、彼の仕事を最大限リスペクトしつつ著書を集めた時代もある。
だからこそ先に書いたような、線路にむらがるキモヲタと一緒にされるくらいなら、俺は鉄道マニアを辞めてもいいと思っている。
というか、実際に辞めた。
国鉄時代の185系が踊り子の運用から外れたことで、撮影したい車両はほぼ国内から消えた。
振り子式の元祖381系については「やくも」が時々話題になるけど、リバイバルカラーにわざわざ塗り替えたところで今更どうでもいい。
あんなのは、紀勢線の「くろしお」中央西線の「しなの」で散々撮影できた車両だし、今更伯備線の生き残りがリバイバルで媚を売ろうが何をしようが知らん。
スカ色と湘南色の115系も、とうとう「しなてつ」の運用から外れ、残ったわけのわからん信州色や新潟色(詳しくは知らん)なんか撮りたいとも思わない。
今の鉄道マニアの大半は何らかの理由で善悪の判断ができなくなった頭のおかしいキチ連中ばかりだし、同時にJRを中心とする鉄道そのものにも魅力がなくなってきたので、キチがダサい電車を撮りまくるだけの変なイベントにしか見えず、マニアを引退するにはいい潮時かもしれない。
そうはいっても、記憶に残っている光景はいくつかある。
特に印象的だったのが、あれは北海道の羽幌線だったか、天北線だったか、石北本線、深名線だったか。
果てもない大原野を1両か2両の気動車に乗り、ひたすら走っている。
走っても走っても景色が変わらなくて、乗っている人も、生きているのか死んでいるのかわからないくらい、静かで。
やがて夕日が西の空を真っ赤に染め、それが紫色の闇となってすべてを包み込む。
小さな無人駅で降りると、辺りは夜。
誰もいない駅、ディーゼルカーの去ったホームに佇んで、何でこんなところで降りたのかを自問する。
広島の可部線でも似たようなことをした。三段峡まで行って帰れなくなった。
越美北線か南線か忘れたが、あそこでも。
磐越東線のDD51に引かれたモケット張りの旧型客車と、小野新町での60分停車のタイムスリップぶりは楽しかった。
大湊線、大畑線、盛線、矢島線、弥彦線、明智線、丸森線、日中線、清水港線などのローカル線。
大垣行きはもちろん、能登線の蛸島行き、山陰線の長距離鈍行、大糸線と飯田線の旧型電車、紀勢線の「はやたま」、板谷峠のED78、碓氷峠のEF63、セノハチのEF59などの思い出深い列車、機関車。
Youtubeの動画再生回数ために一筆書き乗車なんかをする鉄道マニアを見ていると、よくモチベーションが維持できると思う。
あんな、どこの馬の骨以下かわからん視聴者に媚びて、再生回数と投げ銭のためだけに電車に乗るなんて、よくできるなーと感心する。
俺には絶対できんわ。
「んじゃ、てめえは何のためにそれをしたんだ?」と問われると、まぎれもなく、若かりし自分の魂の叫びに応えるためだったと言える。
若さゆえの暴挙だったと今では思う。
そして、そんな真似を何十回も日本のいたるところでやっていた自分は、相当に暇だったと思う。
旅を楽しめるのは、帰る場所があるからだと知ったのも、あの頃である。
中学から高校時代のあの頃こそが、鉄道を愛していたピークだった。
鉄道写真を撮りにいく時は、わくわくしたものだ。
前の日までは綿密な計画を立て、交通公社のでかい時刻表を繰りながら、通過する列車をピックアップする。
特急や急行は停車駅が少ないので撮影場所を通過する時刻が不明なことが多いが、そういう時は自分でスジを引いて時刻を想像するのも楽しい作業だった。
当然、撮影場所に行くために乗る鉄道にもこだわりを見せ、電車よりも気動車、気動車よりも客車列車を選んだ。
はじめて訪れる駅にはできるだけ長居をしたいが、都会の駅や、それに属するターミナル駅、開発済みの地方拠点駅はできるだけ寄らずに通過する。
記憶にあるのは、まだ今ほど開発されていなかった勝田駅で常磐線の終電が終わってしまい、町中をふらふらしていたら、たまたま深夜営業をしていた弁当屋を見つけ、温かい弁当と味噌汁を買った記憶。
終電が出た後の雪の岩見沢駅でどこか身を寄せられる店を探していて、はからずも酔っ払いだらけの飲み屋に迷い込んだ思い出もある。
あのような駅で降りて、あのような店を見つけ、あのような体験をすることは、コンビニが主流となった今では、なかなか無理だろう。
当日は早起きをするか、前の日の終電で駅に向かい、ベンチで眠りながら翌朝の初電をつかまえる。
よく利用したのは大垣発東京行きの夜行鈍行だが、あれで東京まで行ってしまえば、東北、上越、信州のどの方面へも無駄なく滑り出せる。
撮影地の最寄り駅まで電車で行ったら、駅からのんびりと散歩。
時々は道路を歩いている牛に追われたりもしながら。
撮影ポイントについたら周囲を見回し、小さな椅子を置けるだけの、迷惑でない場所を探す。
お仲間がいる場合はできるだけ距離を取って陣取るが、今まで撮影ポイントで同業者に会ったことは数回しかない。そういう場合は、釣り人と同じように、少し場所をずらして陣取り直す。
そんなことをやっているうちに、目の前を貨物列車や単騎回送が数本駆け抜けていく。
高鳴る胸を抑えてカメラを準備し、マーカーの入った時刻表を傍らに、腕時計を確認する。
遠くから汽笛が聞こえ、少し向こうの二本のレールが小刻みに揺れ始める。
近くの信号機は青。
やってくる方向に向けてカメラを構え、フレーミング。
来た!
1両30トンとして、10両で300トンの列車が猛然とやってくる。
その力強さ。
勢い。
直線に連なった窓と、モーター車のパンタグラフの美しさ。
多くの旅客を乗せてひた走る列車。
その無言の美しさと、輸送という崇高なる使命感に俺は圧倒されながら、シャッターを押す。
駆け抜けていく列車に深く頭を垂れたのも一瞬、振り仰いで後追いの撮影の準備をする。
赤いテールランプがフレームの中に遠ざかっていくのを見送りながら、再びシャッターを切る。
その一連の行動は、当時の俺にとっては宗教的な意味もあった。
たとえていうなら、座禅や滝行に参加するとか、えらい和尚さんの説法を聞いてその通りに修行するとか、そういう感じ。
シャッターを押す一瞬がすべてであり、それまでは心地よい緊張感と対峙しつつ、心を無にして列車を待つ。
一本撮影したら、すぐに次のスジをチェックして、通過する列車が上下どちらから来るか、列車種は何か、車両は何か、上下の信号の色などを確認。
混雑度の低い路線では次の列車まで30分以上待つことになるが、そういう時は周囲の自然を眺めたり、そこで生活している人々に思いを馳せたりしながら、貴重ともいえる客地の時を楽しむ。
だから、駅のホームに山のように積み上がっては「どけよてめえ」「死ねくそ野郎」なんて怒鳴り合っているあいつらは、別の人種にしか見えない。
あんな真似をしてまで電車の写真を撮って楽しいのかとも思うが、まあ人はそれぞれ理由があるんだし、キチガイが何を考えているかも知りたくないので不問にする。
やがて太陽が傾き、夕方になると、撮影ポイントでの撮影は終了。
夜は駅構内での撮影が中心。
もちろんフラッシュは厳禁なので、主に長時間露光によるバルブ撮影を行う。
今のように東京上野線のなかった頃の上野駅は最高で、東北、常磐、上信越への各方面への特急が次々と発着していくさまに大興奮だった。
特に東北方面は、昼行「はつかり」「やまびこ」「ひばり」「つばさ」「やまばと」「ひたち」「あいづ」、夜行「はくつる」「ゆうづる」「あけぼの」「北陸」「北星」「八甲田」「十和田」「津軽」「男鹿」「出羽」「鳥海」「能登」「越前」「おいらせ」など、たくさんあった。
(ごっぱーさんの「みちのく」を忘れてた。あれはレアだったよなー)
特に寝台特急「ゆうづる」は圧巻で、1号から7号まであった。寝台電車の583系だけでなく24系寝台客車を機関車が引っ張るタイプもあり、次から次へと東北の夜空へ向けて発車していくその姿は、眺めているだけで恍惚感に浸れたものだった。
あちこちのホームを慌てて走りまくるのではなく、ここと決めたホームの端に佇み、入ってきた列車を手持ちの開放撮影で撮る。
ブルーシートを広げて陣取りをしたり、三脚にレリーズなどの固定撮影は乗客をはじめ国鉄職員の皆様の迷惑になるので行わない。
だから夜間の構内撮影写真を見返してみると、みんな手ブレしているが、それもいい思い出。
第一、きれいな写真を撮るのならプロが国鉄と協力してやっているだろうし、そのような写真集を買えばいい。
鉄道マニアが理想的な写真を撮影する必要はない。
夜行の発着を撮影する行事がひと段落したら、終電車で帰宅、または次の撮影ポイントへ移動。
当然電車は途中でなくなるので、駅のベンチで寝るか、朝まで居させてくれる店を探してそこで初電を待つ。
そんなことをしているうちに大人になり、鉄道と遊ぶ時間はなくなって、今に至る。
たまの休みには鉄道写真でも撮ろうと思っても、カメラを向ける気も起きない列車ばかりで辟易する。
最後に撮影をしたのが、チビ(7)と一緒に修善寺駅で撮った185系C編成の踊り子だった。(別にラブライバーではないが、ラブライブのラッピングトレインも来たので撮った)
ニュースで時々見るのが、「廃線を知った鉄道マニアが大挙訪れて沿線は大混雑」という記事。
俺はああいう連中を「葬儀屋鉄」と呼ぶ。
人が死にそう、もしくは死んだ後で、のこのことやってきて、自分の欲のためだけに乗り、写真を撮る。
お前らは何の役にも立ってないんだよ、と肩を叩いてやりたくなる。
滅びゆく鉄路に対して不要な存在だと。
だから集まるな、群れるな、と。
JRはもっと強硬に、迷惑マニアを排除すべきだと思う。
売れなくなったアイドルを支える昔からの古参ファンだったら何をしてもいいのかといえば、そうではない。
鉄道会社にとっては痛しかゆしの存在だろうが、うっとうしいハエだと思えば沿線全てを撮影禁止にしても悔いはなかろう。
その代わりに一人10万円くらいで電車区撮影会を定期的に行えば、あのアホどもは喜んで金を出して写真を撮りに来るのだから、沿線撮影禁止による集客ロス→収入低下を十分にカバーできるはずだと思うが。
世の論調は「鉄道マニアはクズばかり」だが、鉄道マニアOBである俺も、おおむね同意の巻。